松平容保
【まつだいらかたもり】
最後まで佐幕を貫き、東照宮の宮司として生涯を終える
少年兵の自刃という白虎隊の悲劇を生んだ会津戦争。そのときの会津藩の藩主が松平容保である。美濃高須藩主の子として生まれ、会津藩に養子に入って藩主を継いだ。高須藩は、御三家筆頭の尾張徳川家の血筋であり、会津藩は三代将軍家光の異母弟だった保科正之が藩祖。徳川一門でも筋金入りの血統である。幕末、各地から志士らが集まり、京都の治安は悪化していた。幕府は、治安回復などのために京都所司代の上部機関として京都守護職を新設した。その守護職に任命されたのが、松平容保だった。再三の固辞にもかかわらず、最後には藩祖保科正之の家訓を持ち出され、やむなく受けたといわれている。このために、会津藩は悲劇への道を踏み出したのである。容保は誠実な人柄で、孝明天皇に接して敬い、絶大な信頼を得る。天皇は容保の人柄に感嘆した御製の歌を下賜するほどだった。ところが、公武合体推進派だった孝明天皇が没し、幼い明治天皇が即位すると、公家政治の復活を図る天皇側近と薩長を中心とした倒幕派が手を結び、倒幕に拍車がかかることになる。第一五代将軍徳川慶喜は大政奉還を願い出、京都守護職も廃止になる。容保の立場は失墜し、最後には鳥羽伏見の戦いへと誘い出されることになるのだが、実はこれが計画的に狙ったもので、孝明天皇は暗殺されたのだという噂は当時からあったたという。こうして幕府の権威を守ろうとした会津藩は、新政府軍によって朝敵の汚名を着せられた。会津に戻った容保は、鶴ヶ城(若松城)にこもって徹底抗戦し、籠城一カ月という戊辰戦争会津戦に突入した。城内では婦女子まで戦い、食糧不足から降伏せざるを得なかったという伝説の戦いだ。降伏した容保は死を覚悟していたようだが、永代禁固ですみ、後にこれも許されて晩年は東照宮の宮司となった。容保は、五九年の生涯を終えるまで、孝明天皇から下賜された御製の歌の短冊を竹筒に納め、首から下げて離すことがなかったという。
| 東京書籍 (著:東京雑学研究会) 「雑学大全2」 JLogosID : 14820837 |