津田梅子
【つだうめこ】
日本最初の女子留学生の悩みとは?
一八七一(明治四)年、日本初の女子留学生五人がアメリカに派遣された。最年少の津田梅子はわずか満六歳の少女だった。この留学は実に一一年の長きにわたる。アメリカでは、英文学のほか、ラテン語、フランス語、心理学などを学び、ピアノに親しみ、各地を旅行するなど充実した日々を送った梅子だが、あまりに長い留学生活の間に日本語をほとんど忘れてしまったのだ。英語を話せる父親と姉はともかく、母親とは通訳なしに会話ができなかったという。さらに、アメリカで一人前のレディとして扱われてきた梅子の目には、父親は横暴と映り、家父長制度の厳しい日本の家庭はまるで異国のようで、その環境になじめなかったようだ。こうして梅子は親元を離れるのだが、かといって当時の日本では女性が自立して働ける場所はごくごく限られている。そんな折、梅子は夜会で伊藤博文と知り合い、伊藤のもとで伊藤に英語を教えたり通訳をするようになる。そして伊藤の推薦を得て華族女学校で英語の教師となる。梅子はここで三年余りの教師生活を送るが、自分が理想とする女子教育への夢を断ち難く、再度の留学を決意する。留学先の大学からアメリカに留まることを勧められた梅子だったが、三年間の留学生活を終え、一八九二(明治二五)年に帰国。帰国後の梅子は、女子高等教育の普及をめざして活発な活動を開始する。そして一九〇〇(明治三三)年、念願であった女子英学塾設立願を東京府知事に提出した。設立願に添えた「私立女子英学塾規則」第一条には、「本塾は婦人の英学を専修せんとする者、並に英語教員を志望する者に対し、必要の学科を教授するを目的とす。但し教員志望者には文部省検定に応ずべき学力を習得せしむ」とあって、教育によって自立する女性を育てたいという梅子の願いが感じられる。女子英学塾は、学生一人ひとりの個性を尊重し、いき届いた全人教育を施そうという狙いから、少人数で出発。その後発展して、後の津田塾大学となった。
| 東京書籍 (著:東京雑学研究会) 「雑学大全2」 JLogosID : 14820567 |