佃島
【つくだじま】
東京名物の佃煮発祥の島は、大阪に地名のルーツがあった!
庶民の味として親しまれてきた東京名物佃煮のはじまりは、佃島の漁師が江戸城に献上した残りの小魚などを販売したことによる。それも、生ではなく、日持ちがするように煮たものだった。佃島の漁師が煮てつくった総菜であるところから「佃煮」と呼ばれるようになったのだ。佃島の漁師とは、江戸湾での漁業権を幕府から与えられた人々のことで、特権を与えられたことに対する税として漁獲した魚を江戸城に献上していたのだ。ところで、この佃島の漁師の出自はというと、摂津の佃村(大阪市西淀川区)にさかのぼる。徳川家康が江戸城入府の際に、わざわざ摂津から呼び寄せたのだ。江戸幕府から、隅田川河口の三角州を拝領した人々は、周囲に石垣をつくって人工島を完成させた。佃村の人々の手によってつくられた島だから佃島というようになったといわれる。この一八〇メートル四方の島は、関東大震災にも第二次世界大戦の空襲にも被害をこうむらず、当時の面影をいまに伝えている。一九六四(昭和三九)年に佃大橋がかけられる前までは、佃島まで小舟で渡る「佃の渡し」が往来していた。ちなみに、東京の魚市場というと築地だが、江戸時代の佃島の漁師が魚を商ったのは、日本橋にあった魚市場である。関東大震災によって打撃を受けたために、築地へ市場が移転された。築地の成り立ちは、読んで字のごとく、「土を築いて」つくられた。つまり、一六五七(明暦三)年の大火、いわゆる振袖火事による瓦礫や残土を海に埋めてつくった造成地なのである。
| 東京書籍 (著:東京雑学研究会) 「雑学大全2」 JLogosID : 14820566 |