徴兵
【ちょうへい】
あの手この手の徴兵逃れ
一八七二(明治五)年一二月に徴兵令が公布され、国民皆兵が原則とされた。しかしそれまで、鉄砲を担いで戦をすることは侍の仕事であって、一般庶民はそれぞれの生業に精を出すことが第一と考えられていたから、徴兵令への反発は強く、国民の多くは、なんとかして徴兵を逃れようとしたのである。さて、徴兵令は国民皆兵を原則としてはいたものの、いろいろな兵役免除の制度があった。例をあげると、官史、一家の主人、学生、養子など、いわば国家や家を支えていると考えられた者たちは兵役を免除された。また、二七〇円の上納金を納めれば免除されたが、一八七四(明治七)年の巡査の初任給が四円だったから、ごく限られた富裕な階層のための免除規定であった。一方、病弱な者、身体に障害のある者、前科のある者、さらには身長五尺一寸(約一五二センチ)未満の者も免除された。これらの人々は兵役に適さないと国が判断したのである。誰だって兵隊になって戦争に行くことを喜ぶものはいないだろう。徴兵年齢の二〇歳に達した男子やその家族は、あらゆる知恵をしぼって徴兵逃れを考えた。養子縁組をする方法はよく使われ、養子にいく者が急増したという。また、金をもらう代わりに兵営に入る「徴兵身代り業」というのも存在したという。やがて、一八八九(明治二二)年、「改正徴兵令」が公布されて、こうした免役規定は廃止された。しかし、その後も国民は徴兵逃れのために頭を悩ませた。一八九〇(明治二三)年六月二三日の「読売新聞」を見ると、「滋賀県下の徴兵検査所で、私はひどい痔主でごらんの通りと、尻をまくって見せた。なるほど尻のわれ目から、赤くただれた肉が飛び出している。そこで軍医がぐっと股をひろげさせると、その赤い肉がポタリと下へ落ちたので調べてみると、尻に牛肉をはさんでいた」とある。検査官はこれを見て一同吹き出したというが、本人は大マジメ。必死だったことだろう。気の毒なことではあるが、なんとも可笑しい話である(『雑学明治珍聞録』西沢爽(文藝春秋)による)。こうして、発足当初は国民から疎まれた徴兵制度であるが、日清戦争、日露戦争を経るうちに、兵役に就くことは男の名誉とされ、人々から賞賛されるようになっていくのである。
| 東京書籍 (著:東京雑学研究会) 「雑学大全2」 JLogosID : 14820559 |