北里柴三郎
【きたざとしばさぶろう】
母校といがみあい続けた研究者
北里ほどの世界的学者なら、母校にとっては自慢だろうと思うところだが、彼は母校の東京医学校(二年後に東京大学医学部に改称)とは、在学中も卒業後も険悪な仲だった。そもそも北里は在学中、あまり勉強熱心ではなかった。少年時代は武士になりたいと望み、その鍛練中に明治の世になって武士の時代が終わると、今度は軍人を志望していたので、医学の勉強にはあまり関心を持てなかったのだ。東京医学校(東大)では、血気盛んな同級生たちの中心になって「同盟社」というグループをつくり、演説会で熱弁をふるったり、剣道や柔道の試合で主将を務めたり、気に入らない教師の授業や試験を集団でボイコットしたという。そして北里は、問題児のまま学校を追い出され、国の衛生業務を管轄していた内務省に就職した。七年間のドイツ留学も、内務省から派遣されたのである。数々の研究成果をあげて帰国した北里に、国は研究室一つ用意しなかった。東大との確執があったためである。そこで、彼の受け入れ先として、知人の福沢諭吉が私財を投じて伝染病研究所を建設したぐらいである。さらに、一九一四(大正三)年に伝染病研究所が東大と関係の深い文部省の管轄となると、彼は所員全員を引き抜いて独立し、北里研究所を設立している。いまに至る東大医学部と慶大医学部の対立は、設立当初からその原因があったようである。慶大医学部の初代医学部長は、北里である。
| 東京書籍 (著:東京雑学研究会) 「雑学大全2」 JLogosID : 14820213 |