河口慧海
【かわぐちえかい】
高村光太郎も褒めちぎった、慧海特製の紅茶の味
明治時代から大正時代にかけて、最も原典に近い仏典の入手をめざしてチベット行きを決行したのが、黄檗宗の僧侶河口慧海である。チベット行きを念頭に日本を離れて中国に渡ったのが三二歳のときで、帰国が三八歳という初旅を皮切りに、四七歳、四九歳と生涯で三度のチベット訪問をおこなっている。日本国内にいるときは、ひたすらチベットから持ち帰った経典の研究に努め、生涯を独身で通したという求道者の慧海だったが、その食生活はやや異色だったようだ。慧海は、菜食主義で精進料理しか口にせず、回数も一日二食という習慣だった。これだけなら、特筆するほど変わったことではないが、彼が独身だったため、その食生活には周囲が気を遣っていたようだ。慧海は弟の家族と同居し、その妻に食事などの面倒を見てもらっていた。しかし慧海には書生がいるので、彼らも慧海の弟家族と同居しなくてはならない。つまり弟家族も精進料理でなければならなかったから、一家としてはたいへんなことになってしまった。そこで弟家族は慧海が一緒の朝食と昼食は精進、別に食事をする夕食だけに魚や肉を卓上に並べるようにした。しかし、使用する調理器具は代えられない。いくら磨いてあっても、「この料理は魚を煮た鍋でつくった」と慧海は見抜いて文句をいったと、書生たちの思い出語りが伝えられている。ただ精進料理といっても粗食ではなく、動物性タンパク質のものを食べなかっただけで、意外にグルメだったという。地方から送られてくる珍品が好きで、とくに紅茶には目がなかった。チベットで覚えた味を好み、わざわざダージリンから極上品を取り寄せていたほどだ。この紅茶については、慧海から振る舞われた高村光太郎が、「日本刀のよく切れるような味」と評している。茶葉のよさだけでなく、いれ方も慧海ならではのテクニックがあったようである。
| 東京書籍 (著:東京雑学研究会) 「雑学大全2」 JLogosID : 14820197 |