河井継之助
【かわいつぐのすけ】
恨んだ人々が足蹴にしたため磨耗した継之助の墓
戊辰戦争における数々の戦いのなかで、最も壮絶だったといわれるのが、越後長岡藩が官軍に攻められたときのものだ。この戦いを指導したのが河井継之助である。河井は、長岡藩の中級武士の家の子で、江戸遊学を経験しながらも出世は遅かった。ただ、三九歳で郡奉行の職に就くとたちまち頭角をあらわし、三年後には上席家老となった。これは、藩主牧野忠恭に長岡藩の行くべき方向性を示し、それが認められた結果だった。それは「幕末の混乱のなか、将来は開国、富国強兵が長岡藩の生き延びる道」という未来図だ。藩主の信任を得た河井は、精力的に藩政改革に取り組んだ。おもに農政改革であり、領民にとっては善政となった。鳥羽・伏見の戦いで幕府軍が敗れると、河井は長岡藩の軍備に全力を傾けた。大砲などの購入のため、江戸藩邸を食器にいたるまですべて売り払ったというから徹底している。藩内でも軍制改革をおこなって、農政改革で出た余剰金までつぎ込んで洋式軍隊を組織した。あわせて禄制も改め、下に厚く平均化した。が、これには不満を抱く藩士が出たのも事実だ。こうした行動は、実は幕府側でも朝廷側でもない「長岡独立国構想」ともいうべき道を模索していたからだといわれている。長岡藩が会津・仙台・秋田などの奥羽越列藩同盟に最初は加盟していなかったことも、その構想実現の道を冷静に探っていたからだったようだ。しかし官軍との交渉はあえなく決裂。いざ奥羽越列藩同盟に参加してからは、長岡藩の戦いぶりは凄まじかった。文官として才を発揮した河井は、軍人としての資質も見せ、わずか五〇〇〇の兵力で三万人の官軍を二度も撃退している。それでも時代の流れは止められない。四カ月の抵抗で長岡軍は敗れ、河井も傷を負って命を落とした。敗れた後の長岡藩は悲惨なもので、領地が激減したため藩士たちは悲惨な生活に陥った。そのため全責任は河井にあると、死後に彼への批判の声があがった。一方で農政に救われた領民の河井への評価は高く、藩内の意見はしばらくは二分されたままだったという。
| 東京書籍 (著:東京雑学研究会) 「雑学大全2」 JLogosID : 14820196 |