葛飾北斎①
【かつしかほくさい】
「七〇歳ではまだまだ未熟」九〇歳まで生きた北斎の人生
職人や芸術家のなかで、年々技術や感性が磨かれ、歳を重ねるごとに秀でた存在として認められる人がいる。江戸時代の浮世絵画家・葛飾北斎もその一人である。彼の代表作とされる『富嶽三十六景』は七二歳のとき、『富嶽百景』は七五歳のときの作品なのだ。北斎は二〇歳で本の挿絵画家としてのスタートを切っているが、画号をたびたび変えて四〇歳で北斎を名乗るようになった。その頃には、いくらか世に知られるようになっていたが、浮世絵ではなく、あくまで挿絵画家としての評価だった。やがて北斎は六〇歳で錦絵に目覚め、芸術性を追究するようになっていく。このことは、『富嶽三十六景』発表の折の「あとがき」に自らが綴っている。「七〇歳前に描いた作品は取るに足るものではなかった」というのだ。そのうえで、九〇歳で奥意を極め、一〇〇歳を超えて年を重ねるごとに「生きることが絵を描くことという境地になりたい」と綴る。ただ、彼は奥意を極めたいとした九〇歳で世を去っている。自分で願った年齢までは生きられなかったものの、当時の人としてはかなりの長寿である。浮世絵とならんで多くの川柳も残している彼の句を見ると、脳卒中や尿路系結石の持病で苦しんでいたことがわかり、娘の離婚や孫の放蕩にも悩まされた人生だった。それでも悩みは川柳にさらりと詠んでストレスとせず、こだわることなく作画に集中した。これが長寿をもたらしたと考えれば、北斎はすでに九〇歳にして、生きることが絵を描くことという境地に達していたということができそうだ。
| 東京書籍 (著:東京雑学研究会) 「雑学大全2」 JLogosID : 14820170 |