プラモデル
【ぷらもでる】
静岡の木工業から発展していったプラモデル生産
プラモデルは、どんなにハイテクの時代になろうと、デジタルのゲームが蔓延しようと、変わらず男の子の宝物である。いや、子どもばかりではなく、複雑な大人向け商品は男のロマンをかき立ててマニアは減らない。時代とともに変わったのは、技術の進歩でより精密な縮尺ができるようになったり、デジタル技術の導入で細かい動きが可能になったりと、本物志向を強めている点だ。イギリスでつくられはじめたプラモデルは、一九五一(昭和二六)年にアメリカのメーカーが自動車キットを売り出して人気になったのが普及のきっかけだった。日本はそれから七年後に初の国産品が発売されたが、それからさらに二年遅れて製品を世に送った静岡県産は、いまでは世界のホビーショーなどで注目の的だ。国内ではもちろん生産量日本一で、シェアは八割を超える。ラジコンカー、電池で動いてレースが楽しめるミニカーのようなヒット作品も生み出している。静岡市の世界的企業、株式会社タミヤを知らない男の子はいないだろう。静岡でこれだけプラモ生産が発展したのは、木材の集散地だったためばかりではない。徳川家康が隠居後に大御所として築城した駿府城のおかげで、城下に大工はじめ各分野の職人が集まったのだ。そのため木材の豊富な静岡は伝統工芸として木工芸が育っていたのだ。そうした環境が、第二次世界大戦後、木製の模型製造を盛んにした。飛行機や戦艦の模型のほか、学校用教材の生産も多かった。時代の流れとともに、木製模型にこだわらないで、すぐにプラスチック模型にチャレンジしたのも成功の秘訣だった。もともと細かい作業は伝統があって優れていたので、プラスチックになっても技術は生かされたのである。木工技術のほうも置き去りにされたわけではない。雛人形に欠かせない精密な道具の製作は静岡が独占している状態だ。
| 東京書籍 (著:東京雑学研究会) 「雑学大全2」 JLogosID : 14820779 |