フランス革命
【ふらんすかくめい】
バスチーユ襲撃の目的は、囚人たちの解放ではない!?
一七八九年七月一四日は、フランスの群衆がバスチーユを襲った、いわゆる「バスチーユ陥落の日」として知られている。これは、立憲王政から共和制へと急進化していく「フランス革命」の口火を切るものとして歴史的な事件であった。一般に、人々がバスチーユを襲ったのは、ここが王政による弾圧の象徴であって、そこに捕らえられている政治犯を救い出すのが目的だったといわれている。しかし、真相は違うものだったようだ。群衆の狙いはバスチーユに大量に保管されているとされていた武器や、火薬、銃弾だった。しかし、最初に見つかったのは、山と詰まれたたいくつな記録書類だったという。バスチーユには、生きた人間だけでなく、危険視されたものは書類だろうと書物だろうと、勅命逮捕状によって何でも保管していたのだ。監獄といっても、バスチーユ監獄は暗くも狭まくもなかった。部屋は五メートル四方で、天井の高さは八メートルもあったという。鉄格子ははまっていたものの、七メートルの高さにある窓からは日の光が差し込んでいた。おまけに愛用の家具を持ち込んだり、使用人や料理人を雇うこともできたというから驚きである。さらに毎日メニューが替わる豪華な食事、好きな生地で好きなデザインの服をオーダーして着ることもできた。図書館やカードの設備も整い、なんと国王の主治医がバスチーユの医者を兼ねているという待遇のよさだった。あまり居心地がいいので、期限がきても頼んで延ばしてもらったり、特別に頼んで入れてもらったものがいるほどだったという。そのようなわけで、一七七四年のルイ一六世即位からバスチーユ襲撃の八九年まで、収容された囚人は二八八人だが、そのうち自分からすすんで入った人が一二人もいるのである。しかも、バスチーユ襲撃によって解放された囚人はたった七人。旧体制に対する民衆の怒りと憎しみを打破したとされる、これまでの「バスチーユ陥落」に対するイメージと、実際の歴史はちょっと隔たりがあったようである。
| 東京書籍 (著:東京雑学研究会) 「雑学大全2」 JLogosID : 14820780 |