アレクサンドロス大王①
【あれくさんどろすだいおう】
大帝国の大王は、ギリシアよりもアジア志向
マケドニアの偉大なる活動家として名高いアレクサンドロス大王。マケドニア王フィリッポス二世とエピロス王女オリュンピアスの子であり、早くからアリストテレスの古典的な教導によってギリシア文化の伝統を身に付けて、少年期から戦争に参加していた。若くして戦術に長けており、様々な功績を挙げるも、父と母の不仲に父を疎んじたこともあった。その後、父が逝去すると奮起し、ギリシアを平定すると、紀元前三三四年にはギリシア・マケドニア総司令官に推され、数万の民族軍を率いてペルシア征服に向かった。グラニクス、イトゥスス、アルベラの大戦でペルシア王ダレイオス三世を三度にわたって敗走させると、その後アフガニスタン、パンジャブ地方まで征し、紀元前三二四年にバビロニアに凱旋。その戦いによってヨーロッパ、アジア、アフリカ三大陸にまたがる空前の大帝国をつくり上げた。そのため、いまだにその軍事的才能で、歴史に名をとどろかせているのだが、彼はギリシア文化を広めるために征服を続けたというよりも、その志向は意外にもアジア重視の考えだったというから驚きだ。当初の東征は、父の遺志を継ぐものとしてはじめられた。しかし、彼のペルシアに対する考えは、戦いを通じて変わっていく。ぺルシア貴族のマザイオスを地方長官に任命すると、ペルセポリスを陥落させ、ついにはアレクサンドロス自ら、ダレイオス三世の後を継いで「ペルシア王の後継者」と名乗るまでになるのだ。以降は、ペルシア帝国の支配階級の多くの者が次々に地方行政の長官に任命される。紀元前三三一?三二七年に征服した一二管区のうちほとんどが、ペルシア人の総督に任されたという。よほど、ペルシアの文化や人を気に入ったらしく、アレクサンドロスはペルシア王の衣服をまとい、ペルシア宮廷の儀式まで自ら取り入れ、ギリシア人やマケドニア人にも強要したという。アレクサンドロスの最大の功績といわれる東方世界へのギリシア文化伝承は、むしろ、ギリシア・マケドニア文化の東方化を意味するともいえるようだ。
| 東京書籍 (著:東京雑学研究会) 「雑学大全2」 JLogosID : 14820026 |