日本書紀
【にほんしょき】
■3 大友皇子が即位した記述が『日本書紀』にない理由…「歴史は勝者がつくる」が意味する史料の正しい見方
大友皇子は、天智天皇の息子である。天智の晩年には、太政大臣となって大きな権限を奮ったが、天智の死後、叔父(天智天皇の弟)である大海人皇子によって滅ぼされた。この戦いが、672年の壬申の乱である。
天智天皇の死から大友皇子の死までは8か月ある。だが、それから数十年経って編纂された『日本書紀』には、大友皇子が即位したという記述は一切ない。その期間の天皇は空位だったことになっていた。
ところが、1870年、明治政府は、正式に大友皇子へ弘文天皇という諡名をつけることを決定したのである。
なぜ、証拠が皆無なのに、大友皇子を天皇と認定したのだろうか?
それは、明治期の歴史家たちが、『日本書紀』はわざと即位に関する記事を入れなかったと確信したからだ。
では、なにゆえ、そんなことをする必要があったのか?
実は、そうすることで、大友皇子を倒した天武天皇(大海人皇子)が不利にならないよう配慮していたのである。
『日本書記』の編纂にかかわったのは、当然のことながら勝者である天武系の天皇たちである。
そこで、もし大友皇子が天皇であると認めてしまったなら、大海人皇子は反乱を起こして天皇から皇位を簒奪した、いわば「悪党」ということになってしまう。そのため、即位の事実をあえて消去したというわけだ。
これは、私たちが歴史を考えるさいに、とても重要な視点である。「歴史は勝者がつくる」ということを常に頭に入れながら考える必要がある。
すなわち、勝った人間が負けた人間の歴史を消す、あるいはねじ曲げる、そういった積み重ねによって史書というものは形成されていき、ひいてはそれが、学校で教える教科書のもとになっているのだ。
実際、勝った側の史料に比べて、負けたほうの残存率は極めて少ない。それゆえ、これは仕方のないことであり、そのへんを割り引いて歴史を考察していく姿勢が大切なのである。
| 日本実業出版 (著:河合敦) 「日本史の雑学事典」 JLogosID : 14625002 |