源義経
【みなもとのよりつね】
■5 言い伝えが極端に違う源義経の容姿…美男子だったか、それとも醜男だったのか?
「判官贔屓」という言葉がある。弱者に対する同情を意味するが、もちろんこれは、源九郎判官義経が悲劇的生涯を送ったことに端を発した諺である。兄・頼朝のために平家一門を倒したにもかかわらず、その兄に追われ、身を寄せた先の奥州藤原氏に殺されて終わる。そんな薄幸の天才武将ゆえ、義経は昔から日本人に絶大な人気を誇る。
ところで、義経の容貌はどうだったのだろう?
薄幸というからには、何となく色白の美男子を思い浮かべてしまうかもしれない。事実、室町時代後期に成立した『義経記』には、「心ざま、眉目容貌、たぐいなく」とあり、また女装した義経を「唐の玄宗皇帝の代なりせば、楊貴妃ともいひつべし。漢の武帝の時ならば、李夫人かとも疑うべし」と絶世の美女に比している。
だが、『玉葉』や『吾妻鏡』といった、義経と同時代の鎌倉初期に書かれた史料には、残念ながら彼の容貌に関する記述は見当たらない。
一方、鎌倉中期の『平家物語』では、「面長くして身短く、色白くして、歯出でたり」と紹介されている。何と、馬面の出っ歯だったというのだ。しかも、「平家のなかの選り屑よりも、なお劣れり」とある。つまり、並以下の醜男だったというのだ。また、『義経記』の頃に成立した日本最古の舞楽と言われる幸若舞の演目の一つ『笈さがし』には「向歯反って、猿まなこ、あかひげにまします」とあり、出っ歯で猿みたいな目に赤い鬚をはやしていたとされている。
いったい義経は、美男子だったのか、それとも醜男だったのか、謎は深まるばかりである。
| 日本実業出版 (著:河合敦) 「日本史の雑学事典」 JLogosID : 14625004 |