鼠小僧次郎吉
【ねずみこぞうじろきち】
■12 鼠小僧次郎吉は本当に義賊だったのか?…防犯体制の虚をつく抜け目ない手口とは
最初に言ってしまえば、史実の鼠小僧次郎吉は、義賊(正義の泥棒)などとは程遠い人間である。
1797年、江戸の堺町(中央区日本橋)にある歌舞伎の中村座の木戸番である定七の長男として生まれた次郎吉は、初めは建具職人としてまじめに生計を立てていたが、やがて博打に手を染め、のめり込んで身を持ち崩していった。ついには借金で首が回らなくなり、27歳のとき、泥棒に転身する。もちろん、賭博や女遊びなど、金欲しさからの短絡的犯行だった。狙う家は大名屋敷ばかり、現金専門の犯行だったという。
では、なぜ庶民の家ではなく、大名屋敷を専門にしたのか。別に、大名屋敷が金持ちだからではなく、商家や町屋敷に比べて不用心で隙が多く、たとえ盗まれたとしても、外聞をはばかって盗難を届け出ないから、発覚しにくかったのである。要するに、盲点を突いたのだ。
次郎吉は過去に一度、1825年に盗みの疑いで検挙されたが、このときはうまく言い逃れ、中追放と入れ墨刑だけで済んでいる。その後も偽名を使って江戸に舞い戻り、泥棒稼業を続けた。腕の入れ墨は、上から彫り物をしてごまかしたという。
しかし、1832年5月4日、浜町(中央区日本橋浜町)にある上野国小幡藩(群馬県甘楽郡)・松平宮内少輔の屋敷に忍び込んだところを、ついに同心の大谷木七兵衛に捕らえられた。この日、次郎吉は夜目にも冴える純白の単衣を身に着けていたという。
北町奉行・榊原主計頭忠之の取り調べで、次郎吉は過去の罪状をすべて白状した。
盗みに入った大名屋敷は、本人が覚えているだけで99か所、122回を数え、盗んだ現金は推定1万2千両ほど。現代の金額に換算すれば、最低でも6億円は下らない。しかもそれらの金は、ことごとく博打と女に費やしたというのだから驚嘆に値する。
その手口だが、塀を乗り越え、あるいは通用門から屋敷内に侵入し、番人がいない奥女中の部屋を中心に盗みを働いた。確かに目のつけ所はいいが、さして感心するほどの手口でもない。また、講談が伝えるような妖術も使わなければ、貧乏人に金をばらまきもしなかったのである。
ではなぜ、鼠小僧こと次郎吉は、義賊に祭り上げられたのだろうか。その理由は、だいたい3つほど考えられる。第1は、大名相手に莫大な金を奪ったことで、庶民が溜飲の下がる思いを持ったこと。第2は、人を傷つけたり、殺したりしなかったこと。これは正義の味方にとって必要条件だ。そして最後が、その鮮やかな死に方にあった。
取り調べの結果、次郎吉は市中引き廻しのうえ、獄門と決まった。
処刑当日、馬の背に乗せられた次郎吉は、牢屋の裏門から表に出た。このとき、彼は薄く化粧をし、口に紅をさしていたという。死装束は白の長襦袢に縮青梅の羽織、黄色の帯に黒の腹巻き姿だった。まるで歌舞伎役者だ。牢役人の配慮であろうか。
次郎吉のうわさは、江戸じゅうに広まっていたようで、人々は一目、次郎吉の姿を見ようと周囲に詰め掛けた。次郎吉まさかの晴舞台で、本人が一番驚いたのではないだろうか。
「天の下 ふるきためしは白波の
みこそ鼠とあらはれにける」
そう辞世の歌を詠んだ次郎吉は、鈴ヶ森(品川区南大井)の刑場に露と消えた。36歳だった。その最期は、庶民のなかに鮮烈な記憶として残り、そのため、幕末から次郎吉の実像に尾ひれがついて義賊伝説化したのだろう。
| 日本実業出版 (著:河合敦) 「日本史の雑学事典」 JLogosID : 14625011 |