徳川家重
【とくがわいえしげ】
■11 将軍・家重の言葉を理解するただ一人の男…遺骨から見えた逸話の真相とは?
8代将軍・徳川吉宗の長男で、9代将軍になった家重は、生来病弱なうえ、酒色にふけって大奥に入り浸る暗愚な人物だったという。
それに比べて、次男の宗武は聡明だったから、宗武を次期将軍に擁立しようという動きも強く、老中の松平乗邑などは、
「王(家重)の性懦弱にして而して多病なるを以て、之を廃し、庶子宗武を立てん」(『続三王外記〈8~10代将軍の治世について記した歴史書〉』)
と吉宗に進言した。
しかし吉宗は、長子相続制度を順守し、後憂を払うため、松平乗邑を罷免した。宗武はその後、御三卿の一つとなる田安家を創設している。
その将軍・家重が言語不明瞭で、側用人の大岡忠光だけにしかその言葉を理解できず、それゆえ、家重の指示はすべて忠光を通しておこなわれたという逸話がある。
1958年夏、芝増上寺(東京都港区)にある徳川歴代将軍墓の改葬を機に、学術調査団が組織され、将軍の遺体がくわしく調べられた。このとき、将軍の歯を調査した人類学者・佐倉朔氏によると、家重の歯は極めて特殊で、臼歯列が一定の方向に削り取られたような形状をしていたという。これは、長期間にわたって上下の歯を擦り合わせる運動、すなわち歯ぎしりをしていた痕跡らしい。佐倉氏はその原因を、中枢神経の気質的障害による運動失調症の結果だとし、家重は軽度の脳性小児マヒではなかったか、と推定している。
とすれば、家重の言語障害は事実であった可能性が高いということになる。
| 日本実業出版 (著:河合敦) 「日本史の雑学事典」 JLogosID : 14625010 |