岩崎小弥太
【いわさきこやた】
■12 信念の人・岩崎小弥太…真珠湾攻撃の直後、英米人は友人だと宣言
1941年12月8日、日本軍の真珠湾奇襲攻撃により、太平洋戦争が勃発した。
奇襲は大成功で、これを報道で知った日本人は戦勝に熱狂した。
この浮かれきった雰囲気のなかで、三菱財閥の4代目社長・岩崎小弥太は、ちょっと信じられないような訓示を、社員一同に向かって、おこなったのである。
「これまで三菱と事業を提携してきた多くの英米人がいる。不幸にして戦争状態に入ってしまったが、彼らは私たちの良き伴侶であり、盟友である。将来、もし平和が回復されたら、再び手を取り合って人類の福祉のために邁進したい。また、戦争中であっても、彼らの権利を擁護するのは、私たちの義務である」
さらに、驚くべきことに、この訓示をわざわざ文章にまでして、社内へ配布したのだ。世間の人々が「鬼畜米英打倒!」と叫んでいる真っ最中にである。
社内には、国民の非難の的になることを恐れ、社長の行為に危惧する声も強かったが、岩崎はそれを押し切った。どんな状況にあっても、当たり前のことを当たり前に言う強さ、それを岩崎は持っていたのである。
岩崎は戦時中も、アメリカのウエスチングハウス電機会社へのロイヤリティーをずっと社内で積み立て続けるという信義を貫き通した。
まさに、信念の人であった。
1945年、太平洋戦争は、日本が連合国軍に無条件降伏する形で終わった。
戦後、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は、日本の非軍事化と民主化に取り組んだ。
とくに、経済の民主化においては、これまで日本の財閥がこれを阻んできたと断定し、三井・三菱・住友・安田の各財閥に自主的解散をするよう命じた。
GHQの真の狙いは、日本が二度とアメリカに逆らってこないような弱小国にすることであった。
三井・住友・安田の3財閥は、比較的すんなりと自主的解散を受け入れた。しかし、三菱社長の岩崎小弥太だけは何と、この命令を拒絶したのである。
岩崎の言い分は、次のようなものであった。
「GHQは、過去を反省して自主的に解散しろというが、三菱はいまだかつて反省すべき行為をなしたことはない。また、軍部と結んで戦争を挑発したこともない。国家の命令に従って当然の義務を果たしたまでで、何も恥じるところはない。だから自主的に解体などしない」
怒った岩崎は、一時はGHQの責任者であるマッカーサー元帥への直訴まで考えたと伝えられている。
ときの大蔵大臣が岩崎の屋敷へ来て、いくら説得しようとしても、岩崎はこれに応じず、
「どうしても解体せよというなら、国家の名のもとに三菱解散命令を出してくれ。ぜったいに自分から解体などしない」
そう突っぱねたのだ。
だが、その翌日、岩崎はにわかに悪寒を覚え、そのまま入院してしまう。病名は、腹部大動脈瘤で、絶対安静だった。
そして、それから間もなく、動脈が破裂して、岩崎はあえなく没してしまう。1945年12月2日のことであった。
結局、三菱は自主的解体を受け入れることになる。しかし、もし岩崎があのまま健在だったとしたら、歴史は変わっていたかもしれない。
| 日本実業出版 (著:河合敦) 「日本史の雑学事典」 JLogosID : 14625101 |