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日本史の雑学事典第1章 謎・伝説の巻 > 室町時代

長慶天皇
【ちょうけいてんのう】

■7 日本各地に残る長慶天皇伝説…本当の陵墓はどこにあるのか
 南北朝合一後も、南朝勢力の一部は、幕府に対して抵抗運動を続けた。強行派だった長慶天皇は、南朝再興のシンボルとなり、彼らの手により数多くの長慶天皇伝説が生み出された。ゆえに1394年8月、再興の夢半ばで崩御したあとも、長慶は日本じゅうに出没することになる。
 1944年2月11日、嵯峨東陵(京都市右京区嵯峨天龍寺角倉町)が長慶陵と治定された。それまで長慶の御陵は定かでなく、全国に数か所、御陵参考地が存在した。嵯峨東陵とされたのも史実に基づいたからではなく、単なる形式に過ぎない。いまだに何処に葬られたか不明なのだ。
 遠く、青森県中津軽郡相馬村の紙漉沢も、長慶天皇の御陵参考地となっていた。吉野の地から流れ着いた長慶は、ここで生を終えたという伝承があるのだ。同村の龍田神社(上皇堂)の祭神は、口伝では長慶である
 青森県にはほかにも数か所、長慶天皇伝説を伝える場所が存在するが、なかでも櫛引八幡宮(青森県八戸市)のそれはよく知られている。
 江戸時代、南部藩の藩社というべき広大な社領を有していた櫛引八幡宮には、長慶のものとされる甲胄が現存する。菊の文様をあしらった赤糸縅(縅とは「緒通し」のこと)の甲胄で、大部分が黄金細工でできている。
 秋田にも長慶は現れる。秋田県北秋田郡田代町には、長慶金山と呼ばれる場所があり、長慶が退位後、ここに来て密かに金山を開発したという。何と、長慶が金山の開発者として登場するのである。また、この近辺には、長慶森、長慶沢、上皇堂跡等の小字が現存する。これら、東北の各地方に残る長慶伝説は、この地方に勢力を持っていた南朝派の南部氏との関連が大きく考えられる
 長慶伝説は、広く関東地方にも及ぶ。
 山梨県富士吉田市の背戸山山麓の神社の境内にある石塔は、長慶の御陵と言われている。石塔は2基あり、1基には、確かに御陵と刻まれている。史家によれば、1474年、諸国の南朝遺臣がこの辺りに落ち延び、南朝の皇胤ならびに遺臣の霊を36村に祀り、のちにそれが、富士36社浅間祭の原型になったという。長慶の御陵とされるこの石塔も、その時代に源を発しているのかもしれない。
 東京都八王子市には御所水という小字が存在し、口伝では、南朝派の高貴な人物が落ち延びて来た場所とも、天皇の陵墓の跡とも言われている。さらに、同市散田町の高宰神社は『武蔵新編風土記稿』、『武蔵名勝図会』によれば、南朝方の貴人の墓を祀ったものとされ、その人物は河井(川井)将監と鈴木右馬助という家臣を伴い、この地にやって来たという。確かに長慶天皇には、河井や鈴木を名乗る家臣の存在が確認されている。
 同市に住む郷土史研究家・村下要助氏は、高宰神社は長慶天皇の陵墓を祀ったものに相異ないと言う。第一の根拠として、同市小比企町の長慶寺の存在をあげている。長慶寺は、開山を峻翁令山和尚としており、その峻翁令山和尚が、南朝に好意的な人物で、長慶天皇と面識があった可能性が非常に高いという。長慶寺の創建は、その年から令山和尚の没年、1408年のあいだとなる。南北朝の合一、長慶の没年を含み、長慶の退位後の南朝再興運動とも時を同じくするのである
「わが宿と 頼まずながら 吉野山
  色になれぬる 春もいく年」
 自分は正統な天皇であり、都で華やかに暮らしているはずなのに、都に遷ることもできず、いつの間にか吉野に慣れきってしまっている自分のことを自笑した長慶の歌である。長慶は結局、一度も都の土を踏むことがなかった。




日本実業出版 (著:河合敦)
「日本史の雑学事典」
JLogosID : 14625006


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出版社:日本実業出版社[link]
編集:河合敦
価格:1,404
収録数:136語
サイズ:18.6x13x2.2cm(四六判)
発売日:2002年6月
ISBN:978-4534034137

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