水戸黄門
【みとこうもん】
黄門様は「副将軍」ではなく、漫遊もしなかった!
水戸黄門といえばテレビドラマでもおなじみで、徳川光圀が諸国を歩き、世直しをするという『水戸黄門漫遊記』は多くの人に知られている。しかし、徳川光圀という水戸城主は実在の人物ではあるが、諸国を漫遊したという史実はない。光圀は、『大日本史』編纂のために家臣の儒学者らを日本各地へ派遣したといわれており、また、名君としての誉れも高かったので、このような物語がつくられたのではないかといわれている(別項◆◆◆【徳川光圀】参照)。また、「副将軍」という職制も存在しなかった。しかし、水戸家は将軍を補佐する目的もあって藩主の江戸定府が定められていたことから「副将軍」がつくられたという説が有力だ。光圀が家督を継いだのは、一六六一(寛文元)年のことである。時の将軍は徳川家綱であった。光圀は、一六八七(貞享四)年に綱吉の発した生類憐みの令を批判、ついには一六九〇(元禄三)年には家督を兄の子に譲って隠居する。その翌日に権中納言(従三位)に進んだ。黄門という呼び名の由来であるが、中国では秦、および漢の時代に、宮門のうちの黄色のとびらの内側で仕事をしたた官吏を黄こう門もん侍じ郎ろうといったことからきている。日本では中納言の職にあたる。幕末になって、講談師(氏名は不明)がこれらの伝記や十返舎一九作の滑稽話『東海道中膝栗毛』などを参考にして『水戸黄門漫遊記』を創作したと考えられている。明治時代末になると、時代劇の定番としてもてはやされるようになった。一九六九年からは、現在に続くテレビドラマのシリーズがはじまり、ドラマの毎回の佳境で三つ葉葵の紋所が描かれた印籠を見せて黄門の正体を明かすという筋書きもつくられ、お忍びの旅では現実には考えにくい設定であるが、視聴者に好評を得て定番となっている。
| 東京書籍 (著:東京雑学研究会) 「雑学大全2」 JLogosID : 14820868 |