大黒屋光太夫
【だいこくやこうだゆう】
死んだと思われて墓を建てられた光太夫一行
鎖国体制下の江戸時代、外国に向かって開いていた窓は長崎の出島だけだった。しかも来航できるのはオランダと中国に限られ、日本人の海外渡航は厳禁、禁を犯せば死罪とされた。海難事故に遭い外国船に救出された場合は例外とされてはいたが、それでも不遇だったのが大黒屋光太夫だ。彼はロシアに漂着し、ようやくの思いで帰国を果たすものの、幽閉同然の身で一生を過ごしたのである。大黒屋光太夫は伊勢白子(現・三重県鈴鹿市)の船乗りで、乗員一六人を抱える千石船神昌丸の船頭だった。一七八二(天明二)年一二月、伊勢から江戸へ向かって船出した神昌丸は、四日後に遠州灘沖で嵐に見舞われ漂流を余儀なくされる。それから八カ月を経てたどり着いたのは、当時はロシア領だったアリューシャン列島の小島アムチトカ島だった。ここから光太夫一行の長い長い旅がはじまる。島は、アザラシなどの毛皮を求めて訪れたロシア人によって支配されており、光太夫一行は、不自由な生活を三年も続けることになる。その頃日本では、神昌丸は遭難したとみなされ、白子に供養碑が建てられた。光太夫には「釈久味」という法名が与えられ、乗員一六人とともに石碑に刻まれていたのである。しかし光太夫は帰国をあきらめたわけではない。時のエカテリナ女帝から帰国の許可をもらうため、一行を代表しての光太夫の旅は、カムチャツカ、イルクーツクを経て首都ペテルブルグへと歳月が重ねられた。ようやく女帝の許可を得ての帰国は一七九二(寛政四)年、すでに漂流から一〇年が過ぎていた。その間に一行は次々に病いに倒れ、ロシアに残った二人を除けば、帰国を果たしたのは光太夫のほかはたった一人だった。そんな彼らは罰こそ受けなかったが、江戸住まいとされ、幕府の監視下におかれることになる。幕府はロシアの最新事情を聴取したかったのである。そして帰国から一年後の一七九三年九月、光太夫は将軍徳川家斉の前で、ロシアでの見聞を話す栄誉を得たのである。以後の光太夫は、御三家や蘭学者に招かれるなど、七八歳で没するまで案外忙しい毎日を送ったようだ。
| 東京書籍 (著:東京雑学研究会) 「雑学大全2」 JLogosID : 14820510 |