西郷隆盛①
【さいごうたかもり】
首は見つかっているのに流布した「西郷生存説」
明治維新三傑の一人に数えられ、西南戦争で新政府に反逆して最期を遂げた西郷隆盛。幕末の活躍は江戸城無血開城の功績に代表され、明治新政府では参議に就任した。彼は、陸軍大将を務めていた一八七三(明治六)年、朝鮮国交問題での使節就任をめぐって岩倉具視、大久保利通らに陥れられる。それを甘んじて受け入れ帰郷した西郷だったが、周囲が彼を放っておかなかった。帰郷後、鹿児島では西郷を慕う若者たちが集まってきたので、彼は私学校を開くことにした。しかし、このとき集結した彼らが西南戦争の引き金になっていく。その頃の日本各地では、明治政府の藩閥政治で不遇になっていた士族の反乱が相次いで起こっていた。鹿児島でもこうした不満が爆発寸前であり、西郷というよきリーダーを得てまとまりを持つことになってしまったのだ。早いうちに災いの種を取り除きたい政府の挑発に乗せられて、一八七七(明治一〇)年、西郷は私学校生を中心とした反乱軍蜂起の大将に擁立されてしまった。しかし反乱軍は、兵力をバックにした鎮圧軍に半年あまりをもちこたえるのがやっとだった。最終的に鹿児島の城山にたてこもった西郷は、自刃して果てた。ここから西郷伝説がはじまる。自刃したといわれる西郷が実は生きているという数々の噂である。船で四国の土佐へ逃げたといった国内説から、インドに逃げた、ロシアに行ったと場所はいろいろだ。しかしこれは、生きていてほしいという民衆の願望が生み出したもののようだ。新政府は、介錯ではねられた首を捜し当てたことを知らせたが、それでも噂は生まれた。実は影武者を志願した者がいて、首はその人のものだというのだ。さらにロシア説は、一四年も過ぎてから再燃する。たまたまロシア皇太子の訪日に際して、ロシアに逃亡していた西郷が同行してくるというものだ。ロシア海軍を率いる軍服姿の西郷を描いた錦絵まで誕生するほどの噂となっていたのだから、西郷の人気がすごかったことがうかがえる。
| 東京書籍 (著:東京雑学研究会) 「雑学大全2」 JLogosID : 14820336 |