高知
【こうち】
もともと「脱・水害」を願って付けられた地名
四国の太平洋側に位置する高知県は、その昔、土佐国と呼ばれていた。日本最後の清流といわれる四万十川をはじめ、仁淀川、物部川など四国山地を源とする清流に恵まれた土地である。しかし、この美しい清流に恵まれたことが、住民にとっては悩みの種だった。水不足に悩まされることはほとんどないが、水量が多すぎて水害が起きやすいのである。実は、この地域は、四万十帯と呼ばれる堆積岩が多いため、地盤が弱く、土砂災害も多い。戦国時代には長宗我部元親が、浦戸湾に面して水運の便がよいことに目をつけ、この地に城を築こうとしたが、洪水がひっきりなしに起こり、三年であきらめてしまったという。その後、山内一豊の領地となり、この地に城が築かれたが、やはり水害が治まることはなかった。そこで山内家二代目藩主の忠義は、水害が減ることを祈願して、地名を改めることにした。当時は、「河中」「河内」と書いて「コウチ」と読んでいたが、「河の中」や「河の内側」では、いかにも水害が起こりそうなイメージがあるということで、「コウチ」という呼び方はそのままに、漢字を「高智」とした。「高い」という文字が加われば、水害とは縁遠くなると考えてのことだった。このとき、忠義に改名のヒントを与えたのは、竹林寺の空鏡上人だったといわれている。その後、「高智」は、「高知」と書かれるようになった。江戸時代になると、土佐藩奉行野中兼山によって、県下のほとんどの川が改修工事された。
| 東京書籍 (著:東京雑学研究会) 「雑学大全2」 JLogosID : 14820301 |