東洋医学②
【とうよういがく】
日本人にとっての東洋医学
◆「漢方」の伝播
現在、日本で一般的にいう「東洋医学」は、長らく「漢方」と呼ばれてきました。漢方薬というように、今でもその名前が残されていますし、東洋医学=漢方ととらえられることもふつうです。
しかし、本家中国で呼ばれる「中医学」と漢方がまったく同一というわけではありません。中医と同じスタンスに立つ治療者もいますが、中国の専門家が聞いたら驚くような日本独特の漢方も存在します。その理由を追ってみましょう。
日本に中国の伝統医学が伝えられたのは、6世紀半ばに、知聡という中国人が針治療の方法を持ち込んだのが最初とされています。当時の中国は晋の時代にあたり、その後、遣隋使や遣唐使によって医書や漢方薬が伝えられ、平安時代にはすっかり日本に根付いていったのです。
ちなみに、伝わった当時の「晋方」や「唐方」ではなく「漢方」と呼ぶのは、当の中国でもそれらの時代以前に成立した医学だからです。中医学の原典ともいえる『黄帝内経』も、最初の薬学書『神農本草経』もすでに漢の時代に著されていた書物です。
◆日本独自の漢方ができあがる
飛鳥時代から奈良時代に伝えられた「漢方」は、平安、鎌倉時代を経て安土桃山時代までは、先生である中国の後を追うように発達してきました。しかし、日本人の漢方医師が増えるにつれて、彼らによる医書が出されるようになり、その中には基礎理論よりも実践を重視したハウツー本も含まれるようになりました。
安土桃山時代にはそういう安直なハウツー本が流行し、哲学に基づいた漢方の基礎理論があまり顧みられなくなってしまったのです。この状態に拍車をかけるように、江戸時代に入ると鎖国政策によって中国からの情報が途絶え、漢方は日本独自の道を歩むことになったのです。
情報が途絶えてもそれまでの蓄積が十分ならばよかったのですが、日本にきちんと伝えられていた中医学の古典は『傷寒論』と『金匱要略』の2冊という、限られた部分の理論を紹介するものしかありませんでした。江戸時代以降の日本漢方は、その2冊の理論をベースに発展せざるを得なかったということです。
◆明治の制度で現在のイメージが
江戸の中期、唯一の交易国だったオランダから日本の現代医学のルーツともいえる「蘭方」がもたらされるようになると、漢方は次第に脇役へと追いやられていきました。それでも鍼灸治療などは盛んに行われていたのですが、明治維新によって、漢方は完全に医学の表舞台から姿を消すことになります。
新しい医療制度では、漢方の医師や鍼灸師は外されてしまい、以降は現代医学で治療の範疇に入りにくい症状を得意とする民間療法になっていったのです。同じ名称の薬でも中国とは効能が違う日本漢方が存在したり、漢方に「慢性病専門」といったイメージがあるのは、以上のような理由によるものです。
◆正しい中医学がもたらされたのか
第二次大戦が終わってしばらくすると、漢方をめぐる状況はかなり変化します。慢性病への効能が評価されたエキス漢方が薬価に収載され、中国との国交回復によって本来の漢方、つまり中医学の知識が入ってきたのです。
ただし、正しい知識が入ってきたとしても、実際の医療や制度がよい方向に発展したとは言い切れない面もあります。たとえば、エキス漢方は中医の理論よりも現代医学に合わせて使用されるために、副作用の問題を抱えています。専門家も中医学をきちんと学ぼうとする者、漢方薬や鍼灸を現代医学に利用しようとする者、日本漢方を固持しようする者の3つに分かれてしまっているからです。
| 日本実業出版社 (著:関口善太) 「東洋医学のしくみ」 JLogosID : 5030037 |