天ぷらこそが江戸前
「これぞ東京」と思える料理は、天ぷら・すし・うなぎの三つだろう。ただ、すしとうなぎには関西風があり歴史も古い。天ぷらにも関西風と東京風があるが、東京風のいわゆる江戸前の天ぷらは東京でしか食べられないから、東京の唯一の郷土料理といっていいかもしれない。天ぷらは、南蛮船の渡来とともにスペインやポルトガルから日本にやって来た新しい料理である。当初は水溶きの小麦粉を野菜につけて揚げていたが、のちに江戸前の新鮮で豊富な魚介類を揚げるようになった。今ではすしと並んで日本を代表する料理の一つだ。
魚のすり身を揚げたもの(上方では天ぷら、関東ではさつま揚げという)、具材や衣に味つけしてある長崎風、綿実油で白く淡泊に揚げた上方風と、天ぷらもさまざま。江戸風は具に小麦粉の衣をつけてごま油で褐色にからりと揚げ、天つゆに大根おろしを混ぜて食べるのが一般的だ。江戸前の天ぷらは香ばしく、食材の持ち味が生きている。
今でこそ高級料理に数えられる天ぷらだが、江戸時代の安永年間(1772~81)ごろからしばらくは、屋台で供されていたという。新興都市・江戸には建設工事関係の人夫、諸国から集められ、また集まってきた職人、漁師など圧倒的に男性単身者が多く、立ち食い同然の屋台で手軽に腹を満たせるすし、天ぷらは、彼らには格好の料理だったのだろう。やがて食材のよさ、揚げる技術の確かさなどが求められるようになり、下って文久年間(1861~64)には、身なりをととのえて行儀よくいただくお座敷天ぷらが登場している。
わたしの古い天ぷら体験に、折に触れてふと思い出す情景がある。あれは戦前の、まだ平和な時代だった。母に連れられて千駄木から市電に乗って水道橋で船に乗り換え、さらにどこかで船を乗り換えて、東京湾上で20人ばかりの人々と、晴れ渡った空のもと、漁師の網にかかる魚をその場で天ぷらにして食べた。若い母は楽しそうだった。長じて戦中は、もっぱら精進揚げ。香りのよい新ごぼう、緑濃いどじょういんげん、なす、かぼちゃ、秋のさつま芋など、どれも本当においしかった。戦後、父に連れられて行った虎ノ門の天ぷら屋で、海老、きす、いかと次々に揚げてくれるのを、天つゆと大根おろしで食べたのが、私の本格的な天ぷら事始だ。
| 東京書籍 (著:見田盛夫/選) 「東京五つ星の鰻と天麩羅」 JLogosID : 14070806 |