三浦按針
【みうらあんじん】
日本に残る決意をした按針の思惑とは?
オランダ船リーフデ号が豊後国(現・大分県)の海岸に漂着したのは、関ヶ原の戦いの数カ月前だった。この船の水先案内人だったイギリス人のウイリアム・アダムスは、後に三浦按針の名を与えられ、日本でその生涯を終えている。彼がこうした人生を送るきっかけになった人が、徳川家康である。この頃の日本における外国人といえばポルトガル人宣教師が主流だったが、按針は初めてのイギリス人として幕府を開いたばかりの家康に様々な影響をもたらした。航海士ということもあって、幾何学や天文学などヨーロッパの最新科学知識を与え、造船技術を指導して西洋船建造に貢献した。これらの知識や技術で家康から重用され、三浦(現・横須賀市)に領地すら与えられた。こうしたプロフィールが伝えられているが、家康が最も関心を示したのは、按針がもたらした西洋の国際情勢だったようだ。当時のヨーロッパはスペイン、ポルトガル、イギリスが覇権をめぐって争っていた時代であり、オランダはスペイン統治下からの独立を狙っていた。こうした状況のほか、カトリック宣教師による宗教支配策、西洋諸国の極東諸国との貿易願望などの情報なども得たに違いないのである。やがてイギリスも按針を頼って日本との交易を求めて来日するが、按針の日本でのスタンスは、スペインにもポルトガルにも、またオランダにも等距離を保った商人で、同時に幕府の外交担当官といったところだった。それが、母国に対して冷淡であるとイギリス船の船長に受け取られ、いくつかの交渉ごとで按針の思惑とは違った方向へ動く。按針はその結果、イギリス船の帰国便で本国へ帰るつもりでいたのを中止し、日本にとどまることを決意する。日本に妻子がいたことも理由の一つだろうが、日本にいれば家康側近として富と権力が保てるが、イギリスに戻れば一介の貿易商である。それもたいした規模のものではないだろうとイギリス人船長の言動から彼は悟ったのだ。ただ、間もなく家康が亡くなると庇護を失った按針は、不遇な晩年を過ごすことになってしまった。
| 東京書籍 (著:東京雑学研究会) 「雑学大全2」 JLogosID : 14820855 |