ナイチンゲール
【ないちんげーる】
実は意外にワンマンナース!?
いまは看護師というが、この話題は看護師が女性の仕事とされていた時代のこと、ゆえに看護婦という言葉を使わせていただく。さて、看護婦がまだ専門技術者としての評価が低い時代、高度な訓練を受けた誇りを胸に、ナイチンゲールはクリミア戦争に従軍し、前線へ赴く。一八五四年から二年間にわたる彼女の献身的な看護は、イギリス本国に帰還した兵士たちから「クリミアの天使」と賛辞を浴びた。戦争当時、彼女は、環境の悪さに続発する伝染病のために、ひと冬に二〇〇〇人も死ぬような状況と闘いながら、陸軍病院の改善に奔走していた。彼女の活躍で、病院での兵士の死亡率は約四二パーセントから五パーセントまで激減したという。戦後、イギリスに帰国した彼女は、ロンドンにナイチンゲール看護学校を設立し、看護婦の社会的地位の向上に大きく貢献している。そんな彼女への敬意を表し、赤十字国際委員会が、顕著な働きのあった看護婦に対して「フローレンス・ナイチンゲール記章」を贈ることがいまもおこなわれている。さて、クリミア戦争に赴くとき、ナイチンゲールは三八人の看護婦とシスターをともなっていた。病む兵士たちは「通りすぎる彼女が、ほほえみながらうなずいていくだけで心慰められる」といっているのだが、上司としての彼女はかなり厳しかったようである。というのは、戦地に赴く前、ナイチンゲールがロンドンの「病気の貧しい女性を世話する協会」の病院の責任者になったときの行動に、スタッフたちが驚いていたからだ。彼女は、看護に必要なお湯の出る配管、食事を上階に運ぶリフトの設置、患者が緊急を知らせるベルの設置など、設備の整備を強く要求し譲らなかった。また一方で、何がどのくらい必要で、経費がいくらかかるかということも計算済みで、相手に有無をいわせない用意周到さがあった。とにかく、すべてを看護婦の責任者として仕切ることを望み、またそれだけの技量を持ち合わせていたというのである。おそらくクリミアでも、それと同じように陸軍病院を仕切り、軍の管理者を手こずらせ、看護婦たちに完全なる看護を要求したに違いない。ただ、引退後の彼女は、自分が、仕事のためとはいえ、あまりにも他人に厳しい要求をしすぎていたことに気づいたという。
| 東京書籍 (著:東京雑学研究会) 「雑学大全2」 JLogosID : 14820637 |