滋賀県庁
【しがけんちょう】
激震に襲われた明治時代の県庁移転騒動
明治維新後の廃藩置県の区割りは、その藩が官軍側か賊軍側かなどを理由に、新政府の身勝手な意向が発揮されたようだ。また、土地の歴史や風土を無視して機械的に区割りしたために、土地によっては住民に不便さや混乱をもたらした。滋賀県に起こった県庁移転騒動は、その典型だろう。騒動の発端は一八九一(明治二四)年一二月、県議会最終日に一通の建議書が提出されたことにある。滋賀県北部の地域から選出されていた議員が、県庁の移転を提案したのである。移転先の候補地は彦根だった。県庁所在地の大津は県の南端にあって、北部の住民に不便なことが移転提案の最大の理由で、その点、彦根は県の中央部にあたり、かつての井伊家の居城のあった土地で由緒もあるというのがその根拠だった。しかし大津における県庁はすでに歴史を重ねており、その三年前に県庁舎が新築されたばかりだった。移転反対派は、これらを理由に、彦根は県の中央部ではないと反論した。対立の構図は、つまり湖南と湖北の対立ということだったようだ。急に開会が決まった臨時議会では両派の力は拮抗していて、議会では決着がつかず、翌年二月、ついに内務大臣によって県議会は解散を命じられてしまう。議会解散により明治時代の移転騒動は尻すぼみで終わったが、一九三六(昭和一一)年に再燃する。県庁の改築計画が出てきたからだ。このとき彦根には移転期成同盟会が結成されるほどだったが、これも戦争の靴音によってかき消されてしまった。いまでも湖北と湖南の暗黙の対立構造はあるといわれるが、当時の議会では「いっそのこと琵琶湖上に建設すればいい!」という意見まで飛び交ったようだ。
| 東京書籍 (著:東京雑学研究会) 「雑学大全2」 JLogosID : 14820373 |