京都
【きょうと】
市街地の「右が左京区」「左が右京区」になっている、その理由は?
京都の町の地図を見ると、右側が「左京区」、左側が「右京区」となっている。そのからくりは、次の通りだ。かつて平安京がつくられたとき、中国は隋の都、洛陽と、唐の都、長安がモデルとなった。洛陽がモデルになったのが「左京」で、長安を模したのが「右京」である。当時の中国では、「天子は南面す」といわれていた。つまり、君主は南側を向いて政務をするとされていたのだ。そこで、天皇が執務をおこなう大内裏から南をむいたときに、左側を「右京」、右側を「左京」としたのだ。なお、左京と右京の分かれ目は、大内裏の朱雀門から南端の羅城門を走る朱雀大路である。このように、左右が逆になる呼び名はほかにもある。宮中の儀式をおこなう紫宸殿前の南庭に植えられている桜と橘の木だが、紫宸殿に向かって右側にある桜が「左近の桜」、左側にある橘の木が「右近の橘」と呼ばれる。これも、紫宸殿から天皇が南に向かって眺めたときに、どちらにくるかで呼び名が決まったために、左右が逆になっているのである。というわけで、京都の町を歩くときは、京都御所の天皇の視点で町を眺めてみると、わかりやすいのである。ちなみに、「左京区」と「右京区」、どちらがより重きを置かれていたのだろうか。当初はどちらも同じような扱いだったが、一〇世紀後半になると、左京区には高位の貴族たちの館が立ち並ぶようになった。それに比べて、「右京区」は、あまり人が集まらなくなった。原因としては、「右京区」は湿地が多くて、住むには快適ではなかったとされているが、そのほか、人々は無意識のうちに、太陽が昇る方角へ移るという心理的要因があるという説もある。
| 東京書籍 (著:東京雑学研究会) 「雑学大全2」 JLogosID : 14820231 |