板垣退助
【いたがきたいすけ】
本当はいわなかった!?「板垣死すとも自由は死せず」
幕末の土佐藩出身の板垣退助は、戊辰戦争の会津攻めで功をあげ、明治新政府では参議に就任している。薩長土肥の維新で活躍した人のなかでは、西郷隆盛と似た道をたどるが、新政府内のいわゆる征韓論をめぐる対立で下野して故郷に帰る点も同じである。ただ、ここから異なるのが、板垣は「民撰議院設立建白書」を提出して自由民権運動のリーダーとなっていった点だ。一八七四(明治七)年には土佐立志社を設立、翌年にはこれを中心に愛国社として発展させ、一八八一(明治一四)年の自由党結成へと結びつけていく。四民平等を基本に立憲政体の樹立、国会開設など、新しい日本の姿を模索し、訴えながら、政党政治の源流をつくっていったのだった。そんな板垣が、全国遊説で立ち寄った岐阜県で暴漢に襲われたのは、一八八二(明治一五)年四月六日のことだった。金華山麓の富茂登村の神道中教院でおこなわれた自由党の懇親会で、演説を終えて神社を出ようとしたところを、群衆のなかから飛び出した男に襲われたのである。この事件を、『自由党史』は次のように記す。飛び出してきた男は、後ろから板垣に抱きつき、右手に握った短刀で板垣の右胸を刺した。振り払おうとした板垣の前に回った暴漢は次に左胸を狙ってくる。板垣がこれを防御しようとしているとき、随行者によって男は引き離され、板垣は仲間の手によって運び去られる。そのとき慌てる同志たちに向かって血まみれの板垣が告げたのが「板垣死すとも自由は死せず」という有名な言葉だった。いかにも瀕死のなかでの最期の言葉のようだが、実は傷は浅く、防御の際に切った手からの出血が多かっただけという。実際は、この治療を受けているときに、「このまま自分が死んでも、自由の精神はほろびないだろう」と側近に告げたようだ。襲われた瞬間の板垣は、ただ呆然としていただけだったという。
| 東京書籍 (著:東京雑学研究会) 「雑学大全2」 JLogosID : 14820044 |