平維盛
【たいらのこれもり】
■3 妻子を心から愛した平維盛の哀しい最期…武才なくとも家族想いの悲運な大将
平維盛は清盛の嫡孫で、生まれながらにして武士の頭領としての将来を期待されて育った。しかし、運のないことに、武将としては不適格者であった。
1180年10月、源頼朝追討の総大将として参加した富士川の戦いでは、水鳥の羽音に驚いて逃げたり、1183年5月には礪波山(倶利伽藍峠)の戦いで木曽義仲に大敗したりと、平家衰亡の原因をつくった人物である。
義仲の来襲で平家が都落ちを決めたとき、平家一門の大半は家族を伴ったが、維盛だけは妻子を連れていかなかった。
維盛は、妻をこう諭した。
「私は西国へ向かうが、行く先々にはたいへんな困難が待ち受けているだろう。おまえたちをつらい目に遭わせるのは忍びない。もし私が討たれても、決して取り乱さず、再婚してあの子らを立派に育ててくれ」
これに対して妻は、
「あなたに捨てられたら生きていけません。再婚など思いも寄らぬこと。死ぬときは一緒と約束したではありませんか」
と言ってさめざめと泣き、幼子たちも父の鎧に取りついて離れようとしなかったという。
維盛は余りのつらさにその場を離れることができず、呆然と立ち尽くしていたが、一族の催促で馬に跨り、愛しき家族を残して西へと落ち延びたのだった。
維盛の妻は、嵯峨の大覚寺(京都市右京区)に身を隠したが、やがて、唯一の希望だった維盛の手紙が来なくなり、しばらくして、その死を知ることになる。
討死ではなく、自殺だった。
1185年の屋島の戦いの直前に戦線を離脱した維盛は、恋しさの余り、京にいる家族のもとへ向かおうとした。しかし、生け捕りにされ、恥をかくことにためらいを覚え、父・平重盛に仕えた武将で、いまは出家して高野山にいる滝口入道のもとへと向かう。
そこで出家した維盛は、滝口入道の導きで熊野三山を参拝したあと、那智の海に入水したのである。
入水にさいして、維盛は、
「妻子など持つものではない。この期に及んで思い出してしまう。これでは成仏できない」
と入道に告白する。これに対して入道は、
「成仏したあと、都に帰って妻子を導けばよろしいではないか」
と説いた。
それを聞いて納得した維盛は、静かに海へ消えていったという。享年27歳であった。
| 日本実業出版 (著:河合敦) 「日本史の雑学事典」 JLogosID : 14625079 |