士農工商
【しのうこうしょう】
■13 江戸庶民が出世するベストな方法は?…いろいろあった士農工商・身分間の移動の抜け道
江戸時代の士農工商という身分制度を打ち破って四民平等にしたのは、明治政府である。身分間の通婚が許され、職業・移転の自由も保障された。
もちろんこれで全員が完全に平等になれたわけではない。身分に代わって、国家官僚を頂点とする学歴ピラミッド社会が形成されたからだ。
戦前まで、官僚は文官と武官(軍人)コースに分かれていたが、戦後は文官のみとなった。進学校から東大法学部に入学、国家公務員Ⅰ種試験にパスし、その後は入った省庁で巧みに遊泳して局長クラスまで上り詰める。それがエリートの最高の栄達だとされてきた。厳しい不況で大企業とて続々と潰れる昨今、いくら不祥事や疑惑続きの官僚への批判が強くなっても、こうした構図に大きな変化はないだろう。
けれど、学歴社会なら、己の努力次第で誰でも出世コースに乗ることができる。
それに比べて江戸時代は不幸である。どんなにがんばっても、農民は農民であり、他の身分に移ることはできない。これが、歴史の時間に教わる「士農工商」の制度である。
だが、このイメージは正しくない。事実ではないのである。
たとえば、薄禄だった館林藩士・柳沢吉保は、館林藩主だった主君・徳川綱吉が5代将軍に抜擢されたため、幕臣となった。そして、側用人として綱吉に限りなく重用され、ついには甲府藩15万石の大名にまで出世している。
その甲府藩の前の藩主・徳川綱豊の侍講だった儒学者の新井白石も、主君が6代将軍・徳川家宣になったことで、天下の政治をみることができた。
幕末の混乱期にも、身分を超えたケースがある。新撰組局長・近藤勇は、多摩の農民出身だったが、晩年は10万石の大名格に任ぜられている。
それに、商人ですら大勢武士になっている。貨幣経済の浸透で貧窮した武士が、生活の糧を得るため、自ら隠居して、養子に豪商の子弟を迎え、家系を継がせるというパターンはいくらでもあった。逆の例だが、『南総里見八犬伝』の著者・滝沢馬琴などは、孫のために御家人株を買って武士にさせている。つまり、身分間の移動は、それほど珍しいことではなかったのである。
ただし、同じ江戸時代でも初期の頃は、身分制度がまだ強固であり、そう簡単に身分間の移動はできなかった。もっとも、例外がいくつかあった。
そのうちの一つが、「奥医師」になることだ。奥医師とは、将軍の診察に当たる側近医師のことである。そもそも将軍のまわりに医者がはべるという風習は、徳川家康の頃から始まった。家康は非常に健康に執着しており、さまざまな医学を学び、薬も自分で調合するほどだった。そうした知識は、明や京都の名医を側において、彼らから吸収したのである。やがて、こうした名医の子孫たちは、世襲として将軍家に仕えるようになった。その代表が典薬頭である。
だが、医師は腕が物を言う。必ずしも世襲医師が有能とは限らない。仕事のミスは、将軍の命にかかわる。ゆえに幕府は、腕が良い者なら、一代に限って、藩医のみならず町医者でも抜擢することにした。これが奥医師である。
もし奥医師になれたら、将軍の健康を管理しているということで、諸大名からも一目置かれる存在となる。なおかつ、奥医師にはアルバイトが許されており、将軍の診察のないときには、大名や豪商を診察して、莫大な金を稼いだのである。
地位、そして富││たとえ庶民であっても、医者となって奥医師に登用されれば、この二物を手に入れることができた。
| 日本実業出版 (著:河合敦) 「日本史の雑学事典」 JLogosID : 14625064 |