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日本史の雑学事典第5章 政(まつりごと)の巻 > 明治時代

三条実美
【さんじょうさねとみ】

■15 温厚でお人好しな明治政府の最高責任者って誰?…生まれついた家格ゆえ、はからずもリーダー
 偉大な父親を持つ子供は可哀想である。周囲がその子に父親以上の活躍を期待するからだ。子に才能があれば問題はないが、凡才なら悲劇である
 三条実美の場合が、まさにそうだった。
 彼の父・実万は、武家伝奏(朝廷と幕府の連絡役)として孝明天皇のもとで辣腕を振い、ペリー来航以後、幕府に攘夷の決行を迫り、天皇が日米修好通商条約の勅許を拒絶するように仕組んだ、尊攘派公家の巨魁だった。
 このような才気溢れる実万の四男として、1837年、実美は京都に生まれた。だが、生後間もなく、洛東新田村の農民・楠六左衛門に預けられる。驕逸脆弱な公家の風を嫌った実万が、息子を質実剛健にするために農家へ里子に出したのだとも伝えられるが、経済的事情が真相のようだ
 三条氏は、藤原北家の流れを継ぐ家系で、平安時代末期、藤原公実の次男・実行が、三条大路高倉小路東に屋敷を構えたことから、三条を姓氏とするようになった。家格は摂関家に次ぐ清華家という名門で、これまで太政大臣、左大臣、右大臣といった顕官を多数輩出している。
 だが、近世にあって、公家の生活は貧窮を極めていた。それは、清華の三条家も例外ではなかった。まして実万は「清白」の二字を座右の銘とする廉直な性格で、汚職や賄賂に一切手を出さなかったから、家計は火の車であった。江戸末期の勤王家である世古格太郎の著書『唱義聞見録』には、「三条邸は雨漏りがひどく、雨の日は袖を掲げなければ屋内を歩くことができない」とある
 5歳のとき、実美は生家へ戻る。その後、1859年に幕府大老・井伊直弼の安政の大獄で謹慎を命じられた実万が没すると、実美が三条家の当主となる。その井伊直弼が桜田門外で謀殺されると、京都ではにわかに尊王攘夷論が沸騰、勤王の志士は、実万の後継者である実美に期待し、周囲に群がり始めた。こうして実美は、弱冠23歳ながら、志士勢力を背景に、朝廷で大きな発言権を有するようになった。
 けれども、実美の性質は剛毅な父親と対照的に、温厚で無類のお人好しだった。悪く言えば、主義主張を持たない意志薄弱なタイプであり、その生涯を通観しても、決断力がなく、能動的に事を起こそうとした形跡はまったく見当らない。つまり、単に時勢に流されて尊攘運動に巻き込まれていっただけなのである
 1867年12月、明治新政府が誕生すると、実美はただちに議定となり、年が明けた1月には、岩倉具視と共に副総裁に就任した。
 そして1871年、実美は太政大臣に任ぜられる。その職務は、天皇を輔弼して政治を総覧、外交・条約締結・宣戦・講和の権限を有し、陸海軍を統括するという絶大な地位であり、のちの総理大臣以上だ。この国家の最高職に、内閣制が創設されるまでの14年間在職した。
 ただし、この抜擢は、実美の家格が考慮されたのであって、その政治的手腕が買われたわけではなかった。実際の権力は薩摩・長州藩の有志が掌握しており、実美に期待されたのは、明治新政府のお飾り、御輿としての役割であった。
 実美は小柄な体格だったが、面相に品格があり、不思議な威厳を漂わせていた。花柳界にも足を踏み入れず、大酒を浴びても顔色一つ変えなかった。まるで温厚が服を着て歩いているかのようで、『七卿西竄始末』には、「世を終わるまで一人も公(実美)に怨言する者なく」とある
 しかも、自己の定見というものを持たない「受動の人」だったから、薩長にとって、御輿としてこれ以上の適任者はいなかったのだ。




日本実業出版 (著:河合敦)
「日本史の雑学事典」
JLogosID : 14625066


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出版社:日本実業出版社[link]
編集:河合敦
価格:1,404
収録数:136語
サイズ:18.6x13x2.2cm(四六判)
発売日:2002年6月
ISBN:978-4534034137

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