征韓論②
【せいかんろん】
■17 三条実美の卒倒で挫折した西郷隆盛の征韓計画…周囲の声に二転三転した太政大臣の態度
1873年9月13日、岩倉具視が帰国したことで、朝鮮使節派遣問題の事態は急変する。
すでに大久保利通は5月、木戸孝允は7月に戻ってきていたものの、「朝鮮へ使いへ行く」と主張してやまない西郷隆盛の威勢を前に、沈黙して事態を静観していた。
しかし、使節団のメンバーは、欧米の産業社会を目の当たりにしたため、内地改善を最優先に考えており、征韓論には大反対であった。
そこで、岩倉の帰国を機に、大久保を中心とする一派は反撃に転じ、三条に対して朝鮮大使の派遣の非を論じ、実行しないよう強く説諭した。
ここにきて優柔不断な三条は、遣使にためらいを感じ出し、西郷の上奏許可の要求をのらりくらりとかわし始めた。翻意したのである。
10月14日、閣議において遣使を巡り、かつての盟友、西郷と大久保のあいだで激論が展開される。大久保は、事前に三条を口説き落とし、上奏を許可せぬ約束を取りつけていたのだが、西郷が、
「朝鮮への遣使が実行されないなら、自分は辞職し、死んで朋友に謝罪する」
と、得意の切り札を出して三条に詰め寄ったものだから、結論は翌日に持ち越された。だが、15日の閣議でも収拾がつかず、最後は三条と岩倉の判断に委ねられることになった。
もし陸軍大将たる西郷が辞めてしまったら、彼を信奉する近衛兵が黙っていないだろう。それを大変危惧した三条は、岩倉に対して、
「今日にいたり論を変じ候次第、申し訳なく、大久保氏にも万々不平と存じ候。さりながら西郷進退については容易ならざる儀と心配」
と述べ、大久保との黙契を破って、西郷の遣使を決定したのである。翌日、大久保は激怒して辞表を叩きつけた。木戸孝允、大隈重信、大木喬任ら開明派参議もこれに続いた。
17日、何事もなかったように閣議が召集された。朝鮮大使の上奏手続きをおこなうためである。
ところがこの日、開明派参議のみならず、岩倉までもが病と称して欠席したのだった。
しかも岩倉は、三条に書簡を送って、
「御主旨のとおりにては、天下の事は相去り申しべくと存じ候」
と嘆き、辞職することを告げたのである。
西郷は上奏を迫る、岩倉は来ないという状況のなか、閣議で三条は窮地に追い込まれ、
「明日まで待ってくれ。もし明日、岩倉が出席しなければ、私の判断で必ず上奏するから」
と周囲に泣きついた。惨めな太政大臣である。哀れに思ったのか、西郷は渋々申し出を了解した。
その日、三条は岩倉のもとを訪れ、必死の説得を試みた。だが、岩倉は強く遣使に反対し、長時間の会談に及んだが、ついに自説を曲げなかった。仕方なく三条は、今度は西郷を自宅へ呼び寄せて岩倉の意志を告げるが、西郷も頑として譲らなかった。
ここにおいて三条は、最大の窮境に立った。
――翌18日未明、三条はにわかに精神に異常を来し、人事不省に陥った。極度の精神的ストレスから来るパニック状態であろうか。
病状は翌日から快癒に向かっていったが、しばらく政務に復帰するのは無理だと判断され、岩倉具視が太政大臣代理に任命された。
その後、西郷が岩倉に激しく上奏を迫ったのに対し、「俺と三条殿の考え方は違う」と、一言冷たく突き放したことで、西郷の敗北が決定した。
つまり、征韓論争による政府の大分裂は、結局のところ、太政大臣・三条実美の優柔不断のせいだったとも言えるのである。
| 日本実業出版 (著:河合敦) 「日本史の雑学事典」 JLogosID : 14625068 |