荒木村重の謀反①
【あらきむらしげのむほん】
■4 荒木村重の謀反①…信長の性格に恐れをなしたのが原因か?
1578年10月、織田信長の重臣・荒木村重が、信長に反旗を翻して有岡城(兵庫県伊丹市)に立て籠もった。石山本願寺を包囲している最中、村重の部下がこっそり本願寺へ兵糧を売り、その発覚を恐れたからだという。
謝れば許してもらえそうな理由だが、そうせずに謀反に及んだのは、信長という男に対する恐怖のような気がする。
村重は、信長による一向衆徒の大量虐殺、むごたらしい処刑、拷問を嫌というほど目にしてきた。敵に対する処刑の残忍さという点では、信長は当時の武将のなかで群を抜いていた。
裏切った浅井久政・長政父子の髑髏に漆や金銀を塗って飾り物とし、家臣に披露した話は有名だが、実は久政夫人を捕まえ、彼女の指を毎日1本ずつ切り落とし、泣き叫ぶ様子を楽しんでもいた。
長政とお市(信長の妹)のあいだに生まれた9歳の男子・万福丸(信長の甥に当たる)も串刺しにしている。ちなみに、串刺しするには、生きたままだと暴れてうまくいかないため、殺してから肛門より槍先を挿入し、口まで突き通したと言われている。
もっとも陰湿だったのが、甲賀の杉谷善住坊のケースだ。この男は信長を狙撃した人物で、鋸挽の刑になった。罪人を首まで土中に埋め、竹の鋸でじわじわ首を挽いて殺すのだ。竹鋸は切れ味が悪く、すぐ死なない。しかも、刑場を往来の激しい場所に設け、通行人に鋸を引かせるというのだから、残忍な刑罰である。善住坊は7日間苦しんだすえ、ようやく息を引き取ったという。
| 日本実業出版 (著:河合敦) 「日本史の雑学事典」 JLogosID : 14625017 |