小野篁
【おののたかむら】
■2 出航直前になって乗船拒否?…遣唐使・小野篁の「引き籠もり」事件
小野篁は、勅撰漢詩集の『凌雲集』を編し、『経国集』、『本朝文粋』、『和漢朗詠集』に作品を残す優れた漢詩人である。
802年に生まれ、陸奥守、蔵人頭、左中弁などの要職を歴任、847年には46歳で参議となり、852年には従三位を与えられ、同年12月、51歳で没した。
このように順調に進んだかのように見える篁の生涯だが、その内実は波乱に富んでいる。
834年、篁は遣唐副使を拝命したが、たび重なる暴風雨で渡航に失敗、838年に再度、遣唐副使として渡航することになった。
ところが、病気と称して出航直前になって屋敷に引き籠もり、『西道謡』という遣唐使を揶揄する漢詩まで作って、公然と乗船を拒否したのである。
理由は、遣唐正使の藤原常嗣が、欠陥のある自分の船を、勝手に篁の船と交換したことに腹を立てたからだと伝えられるが、篁もずいぶんと思い切った行動をしたものだ。
ときの権力者・嵯峨上皇は、これに激怒し、篁を処刑しようとしたが、藤原良相の執り成しによって罪一等を減じられ、隠岐島への配流と決まった。
「わたの原 八十島かけて
漕ぎ出でぬと人には告げよ 海人の釣舟」
小倉百人一首に載る篁のこの歌は、実は隠岐へ流されるときに詠んだものである。
隠岐での篁は、諸社寺に参拝して赦免を祈願したり、仏像を彫って寺院に奉納するなど、しおらしい一面も見せるが、一方では、島での生活を十分堪能していた様子がうかがえる。
2年の流人生活のあいだに、何人もの女たちと交渉を持ったと言われ、その一人、五箇村の長者の娘・阿古那と別れるさいには、2体の仏像を彫ってプレゼントしたという伝承まで残っているからだ。
841年、篁は罪を許されて京都に召還された。そして翌年、本位に復している。
まさに異例の措置であり、ほかに類例を見ない。朝廷はよほど、その才能を高く買っていたのだろう。
ちなみに、もう一方の当事者である藤原常嗣は、篁の船を使って円仁らと共に出発、南路を遭難寸前の悲惨な航海のすえ、ようやく唐にたどり着く。常嗣は日本船に懲りて、帰国前に新羅船を購入したという。
そしてこれが、実質的に最後の遣唐使船ということになった。
| 日本実業出版 (著:河合敦) 「日本史の雑学事典」 JLogosID : 14625015 |