天麩羅
【てんぷら】
■5 天麩羅は南蛮渡来のファーストフード…徳川家康の死因は天麩羅の食べ過ぎ?
徳川家康は、たいへん健康に気を遣ったことで知られ、だからこそ長生きして天下が取れたとも言える。
乗馬、弓、鷹狩りといったスポーツを老年になってもほとんど欠かさず、病気のさいには自己診断して自分で薬を調合し、大概のものは治してしまった。食事にも注意し、麦飯など粗食をモットーとした。
そんな家康が、贅沢な南蛮料理を過食し、それがもとで死んでしまったというのだから、何とも皮肉なものである。
その南蛮料理というのが、天麩羅だった。
天麩羅は日本古来の料理ではなく、ヨーロッパ料理がルーツである。ただし、衣をつけて油で揚げるいまの天麩羅とは異なり、戦国時代に渡来した天麩羅と称する料理は、フリッターとか空揚げのようなものだったと考えられている。
天麩羅の語源は、スペイン語で「天上の日」を表わす「tempora」に由来するという説が有力だ。イエス・キリストが昇天した金曜日を祝う日で、この日、キリスト教徒は獣肉を避け、魚肉を油で揚げて食べたことから、南蛮渡来のこの料理を天麩羅と呼んだのだという。
もう一つ、ポルトガル語で「temporas」という言葉がある。「調味」を意味する語で、これが語源だとする説もある。
ちなみに、テンプラに天麩羅の字を当てたのは、江戸時代中期の人気戯作者・山東京伝である。天麩羅は油料理ゆえ、「あぶら」にそれぞれ「天」と「麩」と「羅」の文字をつけたという。
ところで、戦国時代以前にも、我が国には天麩羅によく似た料理が存在した。
古代には米の粉を練って油で揚げた「唐菓子」という料理がある。また、鎌倉時代には中国から、野菜に衣をつけて揚げた料理が入ってきている。ただしこれは、禅宗の精進料理なので、魚など動物性の食材はタブーだった。
では、江戸時代の天麩羅はどのようなものだったのだろう?
家康は、鯛の天麩羅を食べて死んだと伝えられるが、使う油は、いまのような菜種・ゴマ・大豆ではなく、榧だったそうだ。榧の実からは非常に少量の油しか搾れず、ものすごく貴重なものだったらしい。
江戸の庶民は、もちろんそんなものに手が出ない。ゴマ油が一般的だった。いまと違って天麩羅は家庭料理ではなく、屋台で、しかも立ち食いだった。魚河岸から簡単に手に入る江戸前の魚に串を通し、さっと衣をつけてゴマ油で揚げるのだ。屋台には、串天麩羅が皿に盛られ、端には丼に入った天つゆ、大根おろしが山盛りになっている。客は勝手に好きな天麩羅を手に取り、天つゆと大根おろしで食べた。
近年では、ファーストフードのようなチェーン店型天麩羅屋ができ、格安の値段で天麩羅が食べられるようになったが、もともと天麩羅は、こうした庶民の店からスタートしたものだったのだ。
だが、江戸時代後期になると、天麩羅の高級化が進む。まずは、「金ぷら」「銀ぷら」の登場である。「金ぷら」とは、当時贅沢だった卵黄を衣にして揚げたもの。「銀ぷら」は卵白だけで揚げたものだ。
明治時代になると、浅草で東京亭を経営する金田扇夫が、屋敷や旅館に出張して天麩羅を揚げる「お座敷天麩羅」を始めて高級化を促進した。そして、関東大震災で天麩羅の屋台が壊滅してしまったことが、この傾向にさらに拍車をかけたのである。
| 日本実業出版 (著:河合敦) 「日本史の雑学事典」 JLogosID : 14625106 |