死亡広告
【しぼうこうこく】
自分で死亡広告を書いた小説家がいた!
新聞の死亡広告といえば、毎日掲載される黒ワクのものが一般的だが、その黒ワクの死亡広告が日本で初めて出たのは、一八七九(明治一二)年のこととされる。それは明治維新に功のあった元勲、後藤象二郎の娘の死を伝える広告で、三菱財閥の創始者である岩崎弥太郎の弟が出したものである。掲載新聞は「東京日日新聞」だった。その後、新聞の黒ワク死亡広告欄は定番となるが、なかには個性的なものがたくさんある。死亡広告にご供物辞退の文面をかかげた日本初の近代的国語辞典『言海』を編纂した国語学者の大槻文彦や福沢諭吉、無宗教葬儀を強調した中江兆民などの例は、現在の死亡広告でもときどき見るスタイルの元祖だろう。かなり個性的なものに浄土真宗本願寺派第二二世門主である大谷光尊の場合があるが、彼の死亡広告には、葬儀参拝者には国鉄(現・JR)が運賃を二割引きするという広告が加わっていた。さらに個性的な例だが、自分で死亡広告を書いた者もいる。小説家の斎藤緑雨である。彼は、死の二日前に「緑雨斎藤賢(本名)本日目出度く死去候、この段謹告仕候也。年月日」と書いた。実際には、「僕月本日を以て目出度死去仕候間この段広告仕候也。四月一三日緑雨斎藤賢」が掲載された。
| 東京書籍 (著:東京雑学研究会) 「雑学大全2」 JLogosID : 14820391 |