円周率
【えんしゅうりつ】
江戸時代、円周率は「三・一六」だった!?
日本で独自に発達した「和算」。そのルーツは中国の古代算法の流れをくんだもので、江戸時代には多くの数学塾もでき、多くの人々が和算を学んでいた。この時代に使われた数学書としては、百川治兵衛『諸勘分物』や、一六二七(寛永四)年に出された吉田光由の『塵却記』などが残されている。江戸時代初期の数学書『塵却記』は、その後の日本の数学の方向を決めたといわれている。当時、親切丁寧に説明された絵入りの『塵却記』は爆発的に売れた。できるだけ多くの絵を挿入し、絵を見るだけでも楽しく理解できるようにつくられており、多くの学者が、幼少期に勉強した本のなかに『塵却記』をあげている。この頃、一六六三(寛文三)年に村松茂清は著書『算俎』で、円周率を三・一四とした。彼の円周率の求め方は、一つの円に内接する正多角形の辺の数を増やしていき、限りなく円に近づけていくという方法だ。後に『算俎』は世界が注目する算術書となるが、その理由は、円周率の正しい値の求め方が、くわしく示されていたからだ。その後、村瀬義益が『算法勿憚改』を出版し(一六七三年)、その中で円周率を三・一四一五九余としている。なお、村松茂清が『算俎』を出すまでは、実は円周率は、なぜか三・一六とされていた。円周率の精度は、数学の発達の指標といわれるが、江戸時代に和算が著しく数学を発展させたことはいうまでもない。
| 東京書籍 (著:東京雑学研究会) 「雑学大全2」 JLogosID : 14820113 |