都電
【東京雑学研究会編】
§都電の中で荒川線だけが生き残った理由は?
かつて東京の街を縦横に走っていた路面電車といえば「都電」だ。しかし、バスやクルマの発達、地下鉄の開通などにより経営が悪化し、都電廃止論が浮上。やがて財政再建計画にもとづき、一九六七(昭和四二)年から一九七二(昭和四七)年にかけて、三五の路線が廃止された。
現在、生き残っているのは、唯一の路面電車「荒川線」だけだ。
荒川線は、早稲田から大塚駅前・王子駅を経て三ノ輪橋まで、全長一二・二キロメートル、二九の停留所を四八分で結び、毎日約六万人の乗客を運んでいる。
都電「荒川線」の歴史は、一九一一(明治四四)年に、大塚~飛鳥山間に開通した「王子電気」軌道から始まる。一九四二(昭和一七)年には、陸上交通調整法により市電となる。系統は二七系統(三ノ輪橋~赤羽)と三二系統(荒川電車前~早稲田)だった。翌年には都制が施行され、都電となる。
三五の路線が廃止されたとき、荒川線の前身である三二系統、二七系統も全面廃止の予定だった。しかし、この二系統は、路線の大部分が専用軌道で、クルマが走る道路に線路があるわけではなかった。そのうえ、沿線には都電にかわる交通機関がなく、住民はじめ都民から存続の強い要望があった。
廃止は二七系統の一般道路との併用軌道部分である王子駅前~赤羽間だけにとどめ、残りの二七系統と、三二系統を一本に統合して、一九七四(昭和四九)年、名称を「荒川線」と改名し、存続が決定した。理由は、この路線の九割近くの一〇・六キロメートルが一般道路と切り離された専用軌道だったことにある。また、仮に廃止にした場合には、これにかわるバス路線を走らせるのが難しいことや、バスと比べると時間どおりに運行しやすいという利点もあった。さらに、「省エネ交通」として再評価されたことも、生き残れた理由の一つだ。
| 東京書籍 (著:東京雑学研究会) 「雑学大全」 JLogosID : 12670680 |