武田勝頼
【たけだかつより】
■10 武田勝頼の妻の見上げた献身愛…切実な想いを込めた願文を神社に奉納
織田信長は徳川家康と共に、長篠の戦い以後、勢力を弱めている甲斐国の武田勝頼を討つべく侵攻していた。1582年1月には木曾義昌が織田方に、同年2月には穴山梅雪が徳川方にといった具合に、一族の重臣が次々と勝頼を見限って、敵方へと寝返った。
こんな状況のなか、勝頼室(夫人)桂林院は、神仏の力で何とか武田軍の崩壊を食い止めようとした。和紙1枚に571文字をびっしり書き込んだ願文を、氏神である武田八幡宮(山梨県韮崎市)に奉納したのだ。そこには、「いま逆臣が現れ、累代重恩の者もこれに加担して国を転覆しようとしています。勝頼様にどんな非がありましょう。まことに悔しいことでございます。神慮天命が誠であるなら、何とぞ霊神力によって、敵を退散させてやってください」と書いてあった。
桂林院は北条氏政の妹で、1577年に武田家と北条家の関係強化のため、勝頼に嫁いできた。典型的な政略結婚だったのだが、その後はぐくまれた愛情ゆえか、翌年、勝頼と氏政が敵対するようになっても実家に戻らず、勝頼の妻であり続けていた。そんな夫人の切々たる思いが伝わってくる。当時まだ19歳だったという。
しかし、願いは天に通じなかった。同年3月、信長の大軍が甲斐に押し寄せ、築いたばかりの新府城(山梨県韮崎市)にいた勝頼は、重臣・小山田信茂の岩殿城への退避を決意し、新府城に火を放った。
だが、一族・家臣を連れて逃亡する途中、かつての部下たちに襲われ、さらに土壇場になって、頼りにしていた小山田氏まで反旗を翻したのだ。
もはやこれまでと覚悟した勝頼は、先祖の武田信満が1416年の上杉禅秀の乱で自害した天目山棲雲寺を目指した。従者は数十名に激減していたが、そこには夫人の姿もあった。勝頼は北条家へ戻れと説得したが、夫人は拒絶したのだ。
結局、一行は天目山へは行けず、田野(山梨県東山梨郡大和村)で敵軍に阻まれてしまう。
このとき、勝頼夫人は、
「黒髪の 乱れたる世ぞ果てしなき
思いに消える 露の玉の緒」
という辞世の句を詠み、介錯をためらう側近に向かい、「北条早雲以来の弓矢取る武士の家柄、見事な最期を遂げましょう。実家の北条家に様子を伝えてください」と言うや、自ら口に短剣をくわえ、両手で奥へ押し込んで、見事に果てた。
他方、勝頼は敵を斬りまくったが、やがて疲れ果て、具足櫃に腰掛けていたところを、群がり来る敵に討ち取られてしまったという。
| 日本実業出版 (著:河合敦) 「日本史の雑学事典」 JLogosID : 14625086 |