田沼意次②
【たぬまおきつぐ】
■4 金・銀2つの貨幣制度の統一を試みた田沼意次…悪政ばかりでない一面もきちんと評価を
1772年に老中になり、幕政を主導してきた田沼意次には、賄賂のイメージが常につきまとう。確かに田沼は賄賂を喜んだが、彼がやった幕政改革というのは、これまでの農本主義を重商主義へ転換したという点では、まさに画期的だった。もし、水害などの自然災害が頻発したり、息子・意知が刺殺されたりせずに田沼政治が続いていたなら、幕府政権はもっと盤石になったかもしれない。
田沼は、いくつも斬新な政策を実行したが、余り知られていないのが、貨幣制度の統一だろう。
江戸幕府は、金・銀・銅の三貨を発行していたが、金は江戸、銀は大坂の各経済圏を中心に流通していた。つまり、日本列島には完結した2つの経済圏ができ、それが交流することは少なかった。
ところが江戸も中期になると、物流が活発化して全国規模になってくる。そのため、金が大坂経済圏に流入する一方、銀が江戸経済圏へと大量に流れ込むようになった。
この場合、金と銀は両替商によって交換され、その交換比率は、現在の為替相場のように常に変動した。しかも、定量貨幣の金貨に対し、銀貨は秤量貨幣といい、ちぎったりして秤に乗せて使用するため、通貨としては非常に不安定であった。
そこで田沼は、貨幣制度を金に統一しようと『南鐐二朱銀』(定量貨幣)をつくり、これ8枚を小判1枚と交換することに決めた。
しかし、人々は田沼の意図を十分理解できず、なおかつ、相場の変動で利ザヤを得ていた両替商の反発もあり、南鐐二朱銀の定着には、かなりの時間を要したのである。
| 日本実業出版 (著:河合敦) 「日本史の雑学事典」 JLogosID : 14625055 |