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日本史の雑学事典第3章 合戦・戦争の巻 > 江戸時代

松山城の攻防
【まつやまじょうのこうぼう】

■10 珍手・奇手が続出した松山城の攻防前代未聞のモグラ作戦と日本初の軍用犬
 1561年、越後の上杉謙信が関東に侵攻し、北条氏康の小田原城を攻めた。
 このとき、多数の関東武士が上杉方に寝返った。岩槻城主・太田資正もその一人で、資正は機に乗じて後北条方の上田氏の居城だった松山城(埼玉県比企郡吉見町)を奪取、上杉憲勝を城主に据えた。
 松山周辺は交通の要衝地である。ゆえに氏康は、これを奪回すべく出兵を決意する。
 氏康がすぐには兵を進めず、翌年11月になって松山城を囲んだのにはわけがある。越後が雪で閉ざされれば、謙信の後詰めを気にせずに攻撃できるからだ。その翌月には、武田信玄も援軍として加わった。
 松山城は三方を市ノ川に囲まれ、東を堀や土塁で厳重に固めた要害であるそれでも北条・武田連合軍は、猛攻によって総曲輪(石垣や土塁、堀で囲まれた平らな場所)まで落としたが、地形の峻険さゆえ、主郭部へは近づけなかった。
 そこで信玄は、金掘人夫を使って坑道を穿ち、主郭を崩す作戦に出た。
 一説によると、信玄は城の東側にある吉見百穴を見て、このモグラ作戦を思いついたらしい。吉見百穴とは、家族墓と推定される200余の横穴墓からなる、古墳時代後期の代表的な横穴墓群である
 城兵は作業を妨害するため、さかんに鉄砲を浴びせかけたが、武田軍は竹束(楯の一種)で弾丸を防いで作業を続行、ついに二郭を掘り崩した。
 しかし、城方も負けてはおらず、上から坑道へ大量の水を流し込んだ。そのため、穴が崩れて多くの人夫が生き埋めとなり、作戦は中止されてしまった
 資正は、大規模な攻撃のたびに岩槻城から駆けつけ、後方を撹乱した。彼は松山城に軍用犬を配備し、危急のさいには伝言をくくりつけ、岩槻へと放つ方法をとらせていたので、籠城している味方の危機がすぐに分かったのだ。日本における軍用犬始まりとも言われている。
 だが、次第に守城軍の士気は低下してきた。真冬に入り、謙信の来援がますます期待できなくなったからである
 諦めムードが城内に広がるなか、結局、翌年に入って講和交渉が開始され、2月4日、上杉憲勝は城を開け渡した。城兵は助命され、憲勝も厚遇された。
 だが、実はこのとき、謙信はすぐ近くまで来ていたのである。危険を侵して、雪の三国峠を越えてきたのだ。謙信が松山に到着したのは、開城からわずか3日後、まさに一足違いだったという。




日本実業出版 (著:河合敦)
「日本史の雑学事典」
JLogosID : 14625038


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出版社:日本実業出版社[link]
編集:河合敦
価格:1,404
収録数:136語
サイズ:18.6x13x2.2cm(四六判)
発売日:2002年6月
ISBN:978-4534034137

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