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日本史の雑学事典第3章 合戦・戦争の巻 > 安土桃山時代

無血開城
【むけつかいじょう】

■11 江戸城の無血開城は幕末だけではなかった!…難攻不落の名城があっさり降参
 1590年、後北条氏を討伐するため、大軍を率いて関東に遠征してきた豊臣秀吉は、小田原城を包囲すると、浅野長政に兵を与えて、武蔵国にある北条方の支城を次々と攻略させた。小田原城を孤立させ、自落へ追い込もうと考えたのである
 支城のうち、江戸城は「三州(武蔵・相模・上野)の存亡は、武蔵の一州にあり。武蔵の存亡は江戸一城にかかる」と言われた大城郭で、当然豊臣方の重要な攻略ターゲットの一つだった。
 江戸城代の遠山景政は小田原城に籠もっていたので、弟の川村秀重が江戸城の留守を預かっていた。豊臣方の試算では、江戸城兵はおよそ1000人と想定されていた。これに対して浅野長政隊は、2万5千の大軍だった。この重要な拠点を絶対に叩きつぶすという秀吉の意欲が感じられる
 だが、江戸城で戦闘がおこなわれた形跡がまったく見当たらないのである
 後北条氏の大多数の支城は戦わずに降伏したが、江戸城クラスの重要拠点に絞って見れば、むしろ抵抗した割合のほうが多い。
 事実、忍城や八王子城、鉢形城、岩槻城など、武蔵国に点在する後北条氏の城郭については、戦いの模様が軍記物などにくわしく記載されているし、確かに交戦したという史的証拠もあるのだが、江戸城に限っては、それを見出し得ないのだ。
 言い伝えによれば、浅野勢に従っていた徳川家康の家臣・戸田忠次のもとに一人の男が現れ、
「自分は江戸城代・遠山氏の姻戚に当たる者。恩賞と引き替えに、江戸城を開け渡すよう城兵たちを説得してまいりましょう」
と申し出てきたので、これを信じ、任せてみたところ、すんなりと成功したのだという。
 ただ、伝承ゆえに、その真偽は不明である
 浅野長政から江戸開城の報告を聞いた秀吉が、「いずれの城も、命を相助かり候ようにと、急ぎ渡し申したしと存する」(『浅野家文書』)
と答えていることから、浅野隊の来襲に恐れをなし、戦わずして無血開城したというのが、どうやら本当のところらしい
 確かに城兵は1000人と少ないが、江戸城は周知のように、築城の天才と謳われた太田道灌が築いた名城で、入江と川に囲まれた険峻な丘陵上に立地し、三郭が完全に独立して一城を形成しているので、落とすのに非常に手間がかかる。しかも城内には、いくつも井戸が掘られており、湧水も豊富だったので、飲料水の心配はなく、少なくても数か月の籠城には十分耐えられたはずなのだ。なにゆえ、早々に城を引き渡してしまったのか理解できない。
 この江戸城には、秀吉から関東移封を命じられた徳川家康が入り、本拠地とした。本来ならば格上の小田原城に入るべきを、その堅城さゆえ、秀吉が嫌がったとの話も残る。そこで家康は、次善の策として江戸城を選んだと伝えられる
 これは正解だった。城の周辺には遠浅の海と湿地や平原が広がり、それがために、城下町として大発達するスペースが確保されていたからだ。
 かくして江戸は100万都市となり、同城は、徳川幕府の創設後、歴代将軍の居城となった。
 時は流れて1868年、戊辰戦争が勃発し、官軍が来襲すると、15代将軍・徳川慶喜に全権を委任された勝海舟が、官軍のリーダー西郷隆盛と会見し、江戸城を開く代わり総攻撃を回避させた。これが世に知られる「江戸城無血開城である。以後、江戸城は、天皇の住まわれる場所、すなわち皇居として現在に至る。いずれにせよ、小田原征伐のときにも無血開城していたとは、歴史の不思議な巡り合わせ感じる




日本実業出版 (著:河合敦)
「日本史の雑学事典」
JLogosID : 14625039


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出版社:日本実業出版社[link]
編集:河合敦
価格:1,404
収録数:136語
サイズ:18.6x13x2.2cm(四六判)
発売日:2002年6月
ISBN:978-4534034137

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