軍師①
【ぐんし】
■6 日本の軍師は祈祷師だった?…三国志の世界とは異なる軍師像
軍師といえば、日本人より中国人、とくに『三国志演義』のなかに出てくる諸葛亮孔明などを思い浮かべる人のほうが圧倒的に多いだろう。
ところで、日本と中国の軍師では、同じ軍師と言いながらも、その職能に関しては、かなり大きな違いが見られる。そこで、日本の軍師と中国の軍師の差異を述べてみたい。
言うまでもなく、武将の最大関心事は、合戦の勝敗にある。その結果は領国全体の消長にかかわるし、大負けすれば、すべてを失いかねない。だから、絶対に負けないために、あらゆる準備を周到に整えなければならない。
そこで、日本の戦国大名は、軍備や外交と同じくらい、マジカルなものにも気を配っている。ジンクスやタブーといったものに抵触しないよう、常に注意を払い、易や卜筮といった占いによって、極力最良の日取りや方位を選択して行動するように配慮したのだ。さらに、合戦において神仏の加護を心底から期待し、祈祷をおこなったり、護摩を焚いたりした。
けれども、大名個人があらゆるタブーや日取りを頭に入れておくことは到底不可能であった。なおかつ、自ら占いや祈祷をする時間も十分とれない。そこで、こうした専門の知識を有する人材が必要となり、寺院の僧侶、神主、足利学校の卒業生などを雇い入れるようになった。
実は日本史では、そのような知識人のことを、いわゆる軍師と呼んでいるのだ。
軍師というと、陣中において大将に軍略や戦術を授ける、あるいは自ら軍隊を指揮するといったイメージが強いが、それは三国志の世界のことであって、我が国における軍師はむしろ、このようなマジカルな仕事のほうが、その職務の中心だったといってよいくらいなのだ。だから、必然的に陰陽師や修験者(山伏)、禅僧といった人々が軍師の多勢を占めることになる。
ただし、彼らのなかは、方位・日取り・占筮を心得ているだけでなく、戦略や戦術といった兵法、さらには故実や作法にまで通じている者もあり、いわゆる私たちがイメージする軍師、つまり戦国大名のブレーンとして活躍した人物も、少数派ながら存在はしていた。
もう一つ、『三国志』の軍師との大きな違いは、日本の場合、『副』としての域を出なかったことである。
諸葛亮孔明や仲達など『三国志』の名軍師たちは、人望・頭脳ともはるかに主人を上回りながら、決して裏切ることをせず、主人が死んだあとも、主家に忠義を尽くして没している。大将と軍師は、強烈な信頼関係で結ばれていたのである。だから、劉備と諸葛亮孔明のように、大将が軍師に軍事的指揮権のみならず、政治権力さえをも一任してしまうことも稀ではなかった。
それに対して日本の軍師は、軍事行動における大将の補佐役としてのみ期待されていた。もし、軍師がその範疇を逸脱するとき、それは大将の死、もしくは没落を意味した。三好氏における松永久秀、土岐氏における斎藤道三、大内氏における陶晴賢、龍造寺氏における鍋島直茂などは、主家を駆逐して自分が戦国大名にのし上がった元軍師や補佐役出身者である。
そのため、日本の戦国大名は下克上を恐れ、自分より優れた軍師・参謀を抱えたときは、決して反乱できぬよう、常に手元において監視しておくケースが多かったと伝えられる。
豊臣秀吉の軍師・黒田官兵衛は引退してもなお、郷里で隠棲することを許されず、秀吉が死ぬまで側近として飼い殺しにされたのがいい例だ。
| 日本実業出版 (著:河合敦) 「日本史の雑学事典」 JLogosID : 14625034 |