神武紀元
【じんむきげん】
戦前に使われた神武紀元とは?
◆辛酉年を革命の年とする讖緯説
昭和一五年(一九四〇年)一一月一〇日、日本全国で「紀元二六〇〇年」を祝う祭典が盛大に挙行された。この紀元は『日本書紀』に記載される神武天皇(第一代天皇)即位の年を元年としたもので神武紀元あるいは皇紀と呼ばれた(神武紀元の紀年法の施行、および神武天皇の即位日を建国の日として祝う「紀元節」の施行は明治六年から)。『日本書紀』においては、神武天皇は「辛酉年春正月庚辰朔(かのとのとりのとしのはるむつきのかのえたつのついたち)」に、大和国畝傍の橿原宮において即位したと記されている。この辛酉年とは西暦に換算すると前六六〇年となり、西暦一九四〇年は神武紀元二六〇〇年にあたるのである。西暦前六六〇年に神武天皇が即位したというのは歴史的事実ではない。ただ、神武天皇の即位が辛酉年でなければならないのには、次のような理由がある(明治期の那珂通世の説)。
中国・漢代には、讖緯説というものが流行した。陰陽五行説のこじつけ解釈により、天変地異や運勢を予言する一種の数秘術である。この讖緯説によれば、辛酉は革命の年とされている。革命は天命が革まるという意味である。また、中国では干支が一巡する六〇年(一元)を七倍し、それをさらに三倍した一二六〇年(六〇×七×三)を一蔀と呼び、歴史の周期として重視する。そこで一二六〇年ごとに繰り返される辛酉年は、歴史の一大エポックとなる特別の年とされた。
しかし、西暦前六六〇年が神武天皇即位の年とされたのは、単に辛酉年だからだけではない。辛酉年であっても西暦前六〇〇年や西暦前七二〇年では都合が悪い。これは西暦前六六〇年から一二六〇年後の辛酉年が特別の年であったからだ。
◆神武紀元の考案者は聖徳太子だった?
『日本書紀』成立以前の七世紀日本の辛酉年としては、斉明七年(六六一年)と、推古九年(六〇一年)がある。斉明七年は斉明天皇が没した年だが、歴史の変換点となるような出来事は起こっていない。一方、推古九年はといえば、聖徳太子が斑鳩に宮を造営した年である。しかも、讖緯説においては、甲子は革令の年(法令が革まるという意味)とされているが、甲子の年である推古一二年(六〇四年)に、太子は憲法十七条を制定している。また、この年には元嘉暦と推定される推古朝における公式暦が頒布されたと伝えられている。『日本書紀』には推古一〇年(六〇二年)、百済の僧・観勒がきて、暦本・天文地理・遁甲方術書を献上したとあり、このとき「書生三四人を選びて、観勒に学び習はしむ」とあるので、推古一〇~一二年は暦の頒布までの準備期間だったと考えられる。
このように、讖緯説の辛酉革命、甲子革令は、太子の業績とぴったりと符合するため、推古九年(六〇一年)から一二六〇年前の西暦前六六〇年をもって、神武即位元年としたのは聖徳太子だったという説も出されている。ただし、太子の時代の元嘉暦で計算すると神武即位の日はずれてしまうらしい。これは『日本書紀』の安康紀以前の暦日に儀鳳暦が採用されているからだ。推古九年を歴史の遡及起点とする辛酉革命説に対しても異論が多い。
| 日本実業出版社 (著:吉岡 安之) 「暦の雑学事典」 JLogosID : 5040021 |