昔の暦
【むかしのこよみ】
昔の暦は誰がつくったのか
◆日本の暦道は平安時代に世襲化された
律令時代には暦の編纂は、陰陽寮の暦博士や天文博士および彼らを統括する陰陽頭の仕事であった。しかし、暦算は高度な専門知識と熟練を必要とする。平安中期の賀茂忠行は吉備真備(陰陽道の大家で唐より大衍暦をもち帰った)の子孫といわれ、その子の賀茂保憲は陰陽頭にまで出世した。この保憲の弟子に、のちに天下に並ぶ者なき陰陽家として名声をはせた安倍晴明がいた。保憲は子の光栄に暦道を、弟子の安倍晴明に天文道を伝え、以後、暦道と天文道は賀茂家と安倍家の家学として世襲化された。賀茂家の正系は一六世紀にとだえるが、これを安倍家が代行し、また賀茂家は安倍氏一族の幸徳井家が継いだため、日本の暦道・天文道に安倍家(のち土御門家と称す)とその一族が深くかかわることになった。このため、一族以外の多くの陰陽師は生活難に陥り諸国に分散することになったという。
◆貞享の改暦を扱った近松の『大経師昔暦』
江戸時代になると八〇〇年間にわたって使われてきた宣明暦の狂いが指摘されるようになり、幕府としても放置するわけにはいかなくなった。しかし、改暦には政治がからんでくる。当時、暦道に関しては京都の土御門(安倍)家が隠然たる支配力をもっていた。そこで、幕府は渋川春海を土御門家に弟子入りさせるなど、万全の根回しを行なったうえで、ようやく貞享暦の改暦を成功させた。この改暦の功により渋川春海は幕府が新たな職制として設けた天文方に任命され、以後、渋川家が幕末まで天文方として世襲することになる(ただし、天文方は渋川家の独占ではなく、猪飼家、西川家などの数家が併存した)。
幕府が天文方を設置したのは、京都の土御門家から頒暦の主導権を奪おうという目的があったようだ。かくして貞享暦の改暦以後、土御門家は暦注部分のみを担当するようになり、科学的な編暦については天文方の所管となったのである。
近松門左衛門の浄瑠璃『大経師昔暦』は、京都の大経師家の若妻おさんと手代の茂兵衛の姦通を扱ったものだが、これは浜岡権之助改易事件という実際の事件を題材としている。姦通した二人は磔となり、大経師家が断絶となったこの事件は、貞享暦が施行された天和三年(一六八三年)に起きている。表向きは姦通事件だが、大経師浜岡権之助が、江戸奉行所へ暦の板行権(出版権)の独占を願いでて、当該役所である京都所司代の怒りを買ったのが原因といわれる。
大経師というのは暦の原稿を版木に彫りつけて印刷・出版(大経師暦)する専門業者である。宮中御用を務め、諸役も免除される特権をもち、なかなかはぶりがよかったらしい。
| 日本実業出版社 (著:吉岡 安之) 「暦の雑学事典」 JLogosID : 5040023 |