?庶民には高嶺の花の〝ハレのそば〟
「さらしなのそばはよけれど高いなり、もりをながめて二度とこんこん」
麻布永坂のそば屋「更科」のことを、江戸後期の狂歌師蜀山人こと大田南畝が詠んだとされている。「(値段が)高いなり」は「更科」背後の台地上にあった「三田稲荷」にかけている。さらに「森」と「もりそば」、「(狐の)コンコン」と「来ん来ん」がかかっているわけだが……。本当に、三十代で文芸界のみならず天明文化の中心でもあったとされる蜀山人の作なのかは少々奇しい。しかし「永坂のすぎたるものが二つあり 岡の桜と更科のそば」とも詠われた麻布永坂「更科」が、江戸で評判の、庶民にはちょいと高嶺の花のそば屋であったことは、まちがいない。そばは庶民の食べ物という固定概念をもたれがちであるが、どっこい江戸期から、ケのそば屋もあれば、ハレのそば屋もあったのだ。
寛政二年(一七九〇)に創業した麻布永坂「更科」は、今日更科そばとして流布されている、そばの実の芯にある微粉を用いて打つ白さが身上のそばを、明治初期に商品化し一層興隆をきわめた。店の入口には右木戸と左木戸があり、左木戸から入るとそこはごく庶民的なそば屋の設えとなっていて、ここでは並そばと銘打たれた一般的なそばを出していた。右木戸から入った客は、清水のこんこんと湧く広大な敷地を見やりながら、庭を通り離れの座敷へ上がる。更科そばはここで供された。のどかな旦那衆は酒を飲み、肴をつまみゆったりと時間を過ごした。座敷で天ぷらといえば活イセエビの天ぷらと決まっていた。座敷の濡れ縁の下には、いつも無数のイセエビが折り重なるようにうごめいていたという。冬場、店の仕舞い時分になると、湯たんぽを持った地元の人達が裏木戸に並んだ。店では、湯たんぽに大量に残ったそば湯を入れてあげた。飲むわけではない。「そば湯の湯たんぽ」は心底あったまったのだ。
麻布永坂「更科」は、諸事情重なり戦時中に店を閉じ、その後は戦後の混乱で系譜はよくわからなくなってしまったが、麻布永坂「更科」の最後の主人七代目堀井松之助の四女堀井君子さんは、幼き日に見、子供ながらにそこに参画していた「更科」の風景を心と体にしっかりと刻み込んでいる。彼女は麻布永坂「更科」のノレンは守れなかったが、そこにあった気概、その中身である料理だけは残していきたいと願い、平成三年(一九九一)、恵比寿に「翁」を開店した。ここでは、あまたある他店の追随を許さない見事な更科そばが食べられる。また、純白の更科そばの副産物である、季節を映した変わりそばもすばらしい。しかし、右木戸の世界を再現していて一万円からのコース料理のみの提供で、更科そばはその悼尾を飾る。平成十八年(二〇〇六)九月と十月一旦店を閉じリニューアルして、十一月に再オープンした。そこでは左木戸の世界も加味していきたいと彼女は思っている。
このようなスケール感を持った料亭のごときそば屋が、戦前までの東京にあったという事実は大変興味深い。それは実に多彩なそば屋が百花繚乱と咲き乱れている今日のそばシーンの行く末に、興味深い示唆をもたらしていると言えるだろう。
| 東京書籍 (著:見田盛夫/選) 「東京-五つ星の蕎麦」 JLogosID : 14071324 |