?石臼碾き自家製粉の嚆矢、荻窪の「本むら庵」と柏の「竹やぶ」
しかしそば屋がなくなったわけではない。そこに厳然とそばという食文化が生きている以上、喜ばしいことに職人魂がついえることはなかった。一九六〇年代に入るとポツリポツリと手打ちそば屋が出現し始めた。
より良いそばを打ちたいと、日々手打ち作業にいそしむ職人は、自ずと原材料のそば粉に目が向く。料理はどうあがいても素材を超えることはできない。より良いそばを打つためには、より良い粉が必要である。また、手打ち作業の消えた荒野から、その作業を自らの手に新たに取り込んだ進取の気性に富んだそば職人たちには、そば粉とは、そばとはつまりどういうものなのかと、そばの本質をより深く掌握したいという探究心があった。手打ちそばの担い手が自家製粉へと踏み出したのは、きわめて自然な流れであった。
昭和四十六年(一九七一)荻窪「本むら庵」が石臼碾き自家製粉を始めた。店主小張氏は比較的粗い粉を碾くことを旨とした。自家製粉した粗挽き粉で打った野趣に富んだそばは評判を呼んだ。
数年後、千葉県柏市の「竹やぶ」が石臼碾き自家製製粉を始めた。店主阿部氏は東京湯島の「池の端藪蕎麦」で修業した。手打ちそばではなかったが、東京の老舗の名店のそば屋ならではの粋な風景に心を打たれた阿部氏は、江戸期に花開いた江戸前そばを現代に実現することを目指した。江戸期のそばが妙高、戸隠、黒姫の玄そばを用いていたことを調べた阿部氏は、この周辺で栽培農家を探し、黒姫で知己を得た。黒姫産の玄そばを比較的粒子の細かい“ふうわりした粉”に製粉し、繊細微妙なそばに仕立てた。昔ながらの町場のそば屋の風情を今に残す「本むら庵」。新時代の趣味そば世界を開示した「竹やぶ」。石臼碾き自家製粉の嚆矢となった二店は、そばも店作りも対照的である。
一九八〇年代に入ると多くの手打ちそばの実践者が石臼碾き自家製粉を始めた。九〇年代初頭、関西の御三家、奈良「玄」、大阪「凡禺」、兵庫「ろあん松田」が開店し、“手打ち、石臼碾き自家製粉”の潮流の礎を築いたそば屋は出揃った。核となった店は、僕の知る限り約二十軒あった(そこには前述した「一茶庵」の片倉氏の薫陶を受けて手打ちそば屋を営んでいた埼玉県秩父「こいけ」、茨城県鉾田「村屋東亭」、八王子「車家」なども含まれている)。これらを僕は“手打ち、石臼碾き自家製粉”の第一世代とする。
| 東京書籍 (著:見田盛夫/選) 「東京-五つ星の蕎麦」 JLogosID : 14071326 |