4.一茶案
【いっさあん】
昭和初期、そばの世界は、多くが機械製麺に変わり、手打ちの店は十指を数えることも難しくなった。第二次世界大戦中、そば粉は物資統制下にあり、そば屋は営業出来なくなった。戦後は、そば粉の流通があっても衛生の見地から、機械の工程のみのそばだった。一九七〇年代になり経済成長期を迎えると、江戸以来のそばの技術低下に危機感を抱いた東京の「本むら庵」の小張信男氏は手打ちの復興を試みる。また、「一茶庵」の創業者片倉康雄氏も、昭和四十八年(一九七三)、多田鉄之助と「日本そば大学講座」を開設し、技術の普及に力を入れた。氏は大正十五年(一九二六)、一茶庵を新宿に開き、昭和八年(一九三三)、大森に移転。魯山人との親交もあり、この店で、そば料理を完成させた。同十七年(一九四二)、戦争のため閉店。戦後の同二十九年(一九五四)、足利で再開し、その後、手打ちそばの技術の指導普及により、全国のそば職人に影響を与えた。長坂の名店「翁」の高橋邦弘氏なども、その一人だろう。
一茶庵は、新しい流れを、手打ちの技術と共に作ったが、その暖簾の系譜は、大きく分けて四つある。本店の家族および親族、暖簾分け、そば講座、次男英晴氏の教室からの流れ、である。
手打ち復興を導いた一茶庵のそばは、江戸的に、細くて繊細、つゆは濃い。それに、五色そば、焼き味噌は出色だ。
| 東京書籍 (著:見田盛夫/選) 「東京-五つ星の蕎麦」 JLogosID : 14071321 |