大隈重信
【東京雑学研究会編】
§大政治家・大隈重信はほら吹きだった?
明治維新は、薩長土肥の各藩の功績が大きいと言われている。しかし、明治新政府で高官になったのは薩摩と長州出身者が多く、土佐は坂本龍馬のように動乱期の偉人を輩出したといったようなエピソードも多いが、肥前佐賀藩出身者は影が薄い。
そんな中にあって、強烈な存在感を示したのが大隈重信だ。新政府で、いわゆる「大隈財政」と呼ばれる地租改正や鉄道・電信の設立に取り組むが、薩長藩閥と対立して辞職、のちに板垣退助と憲政党を結成して日本初の政党内閣を実現させた。
また、早稲田大学の前身である東京専門学校の創立者として、今もキャンパスに建つ彼の銅像は早稲田大学のシンボルとなっている。
ところが、当時の大隈に関する評判といえば、軍人の三浦観樹の「大隈のいうことは、どんなことでも五割引きで聞かなければならない」という言葉どおり、総理大臣時代の彼の話は、まさに「話半分」で聞かれていたという。
評論家の三宅雪嶺にいたっては、「大風呂敷は、よほど広い大風呂敷」といって、その話の空虚さと、「位と金の力で引きつけたがる傾向が見える」ことを、こきおろしている。確かに大隈は三菱財閥に肩入れして深い関係を築くような行動に出たこともあるが、国粋主義者だった三宅にしてみれば、自由民権運動に走り、政党政治を実現した大隈のすることには、すべて否定的な目を向けていたと考えられる。
しかし、同じ民権運動の提唱者であった中江兆民も、彼の壮快さは愛すべきところがあるが、一国の宰相たる器ではないと評し、「在野で相場師だったらよかった」という人物評をしている。
ほら吹きだと、誰もが感じる大言壮語が、よほど多かったのだろう。
| 東京書籍 (著:東京雑学研究会) 「雑学大全」 JLogosID : 12670120 |