人力車
【じんりきしゃ】
人力車のルーツは乗合馬車だった?
幕末、日本が開国されると、外国文化がどっと上陸し、日本人の生活は一変した。鉄道や自動車、バス、地下鉄、路面電車から自転車に至るまで、乗物はすべて外国からの輸入品である。その中にあって唯一、日本で誕生し外国にまで輸出されたというすぐれ物があった。人力車である。人力車を誰がはじめにつくったかについては諸説あるが、日本で発明されたものであることだけは確かだ。
一八七〇(明治三)年、和泉要助という人物が、馬車にヒントを得て考案したというのが定説になっている。翌年、和泉要助は鈴木徳次郎、高山幸助を誘い、東京府に人力車の製造と運送業務の許可を申請し、日本橋に店を構えて営業を始めた。人が車を引いて客を運ぶという人力車は、昔からもっぱら徒歩を交通の手段としてきた日本人ならではの発想だといえる。
はじめは、箱に車輪を取りつけただけの簡単な構造であったが、日に日に進歩し、やがて凸凹道にも耐えうるスプリングつきの車輪も登場。木輪からゴム輪へ、そして空気入りのタイヤへと改良された。人力車は安全性と運賃の安さ、それに玄関先にまで横づけできるという小回りのよさが受けて急速に普及。東京だけでも二万台あまり、全国では二〇万台以上の人力車が活躍したのである。人力車夫の中には、勇ましい女性の姿もあったという。
しかし、時代の波には勝てなかった。都市では路面電車が普及し、自動車が登場すると雲行きも怪しくなってきた。タクシーが出現するに至っては、太刀打ちすることができずに衰退の一途をたどり、大正時代にはほとんどの人力車が姿を消してしまった。だが、明治の文化を懐しむように、最近では観光地などで復活し、旅行者にサービスを提供している。
| 日本実業出版社 (著:浅井 建爾) 「道と路がわかる事典」 JLogosID : 5060138 |